「同労者」第23号(2001年8月)                          目次に戻る

祈りの小部屋

 − バウンズ著、「祈祷の目的」から −

 祈りの参考になると思われることを引用紹介させていただいています。引用された内容が、
神様に明快な祈りの答をいただいたもの、英語でドラスティックと表現するとよいような内容で
あるため、紹介の意図について誤解をまねかないようあらかじめ述べておきます。次の事例を
お考え下さい。
 タイトルの「祈りの小部屋」の由来である森田咲子姉が癌になったとき、医師は本人には告
げず家族に姉妹の終わりの予測を告げました。そのとき周囲の者たちの前には選択すべき二
つの道が置かれていました。その一つは、皆で姉妹の癒しのためにひたすら祈り、姉妹の命を
延ばして頂くことです。もう一つは、姉妹に、地上の生涯を終え天国に召されることを神の聖旨
として受け入れていただくことです。山本光明牧師は後者を選びました。人は自分の死を容易
く受け入れられるものではないことでしょう。しかし姉妹はそれを受け入れ、献身した娘の婚約
を見、自らの信仰を息子と彼らに託して世を去りました。
 私たちは神がすべてのことをなし得たもうことを信じています。しかし私たちの前に起きてくる
出来事は神の摂理によるものであって、そこに私たちの思いを越えた神の知恵によるご配剤
があります。神のご配剤に添った祈りができることこそ最もすばらしいものです。
 バウンズの紹介している、ジョン・ウェスレーとジョージ・ミュラーの祈りに関する記事に目を留
めてみましょう。



アダム・クラークはその自伝中に、ウェスレーが英国に帰るとき、逆風のため船が非常におく
れたことを記している。このときウェスレーは読書していたが甲板上で何か騒ぎが起こったの
に気がついて、何事かとたずね、それが逆風だということを知った。ウェスレーは「では祈りまし
ょう」といった。
 アダム・クラーク博士が祈った後で、ウェスレーは単に願いというよりも信仰の祈りと見える篤
い懇求をなした。「全能にして永遠の神よ、あなたはすべての場所を支配したもう、すべてのこ
とがあなたの目的のために用いられ、あなたの腕をもって風を保ち、洪水の上に乗り、永遠に
王を治めたもう。これらの風と波とに命じてあなたに従わせたまえ、そして私たちを早くまた安
全に行こうとする所に行かせたまえ」と祈った。
 この祈りはすべての人に感じられた。ウェスレーは祈りから立ち上がったが何も言わずにまた
読書していた。クラーク博士は甲板に上がったが驚いたことには風向きが変化して居った。そ
れから船が停泊するまで風は変わらなかった。風向きが変わったことについて彼は何事も言
わなかった。それほどに祈りがきかれることを充分に信じきっていたのである。
 これが即ち目的をもった祈りであった。即ち神は耳をもち、神は祈った祈りを許可したもうの
みならず、喜んでこれを聞きたもうことを知っていた人の的確なまた直接神に語ることばであっ
た。 

 D・W・ホイットル少佐はブリストンのジョージ・ミュラーについて祈りの不思議に関する序文で
次のようにいっている。
「私はケベック(カナダ)からリバプール(イギリス)に航行とする朝、急行列車中でミュラー氏に
会った。小船が旅客を載せて本船に行く三十分前に、彼は係の者に、ニューヨークから甲板用
の椅子がとどいているかどうかをたずねた。だがまだ来ていないばかりか、とても汽船の間に
合わないだろうと答えられた。私はミュラー氏に向かって、自分は今、一つの椅子をすぐそば
の店で買ったところである、時間までにはまだ数分あるから一つ買ったらよかろうとすすめた。
すると彼は『いや、兄弟よ、天の父はニューヨークから椅子を送って下さる。それは家内の使い
なれたものです。私は一人の兄弟に手紙を出して、先週のうちにここに到着するよう依頼して
やったのです。彼は私が期待したように早くやってくれなかったけれども、神様はあの椅子を送
って下さるに相違ありません。家内は船に弱いのでどうしてもその椅子がほしいのです。それ
で私は昨日から天の父にそれを送って下さるように願っておりました。ですから父はそれを送
って下さることと信じます。』と答えた。この愛すべき神の人は数ドル出せばミュラー夫人に危
険な旅行をさせずにすむものを、あまり極端に信仰の原則を応用しすぎると私はおそれた。ミ
ュラー氏が小荷物室を去ってから十分もそこに居たが丁度私が急いではとばに行く時に、一
台の馬車が道を走って行った。その荷物の上に、ニューヨークからとどいたミュラー夫人の甲
板椅子があった。それは直ちに世話人の手に渡された。(これは主が私に与えたもうた教訓で
あった)ミュラー氏はにこにこした子供のような態度で深くそれを喜び、うやうやしく帽子をとって
手をその上におき、椅子を送りたもうたことを天の父に感謝した。」
・・後略
(バウンズ、「祈祷の目的」、東宣社、1957、p.31)




  私たちは神が祈りを聞いて応えてくださることを信じるべきです。実際の祈りについて考え
てみると、祈る相手のお方は真の神であっても、自分が祈るときには神のことをあまり考えず
日本人の間にある宗教観「祈念の心」だけで済ませることが多くないでしょうか。
 また祈らなければならない事態も考えなければなりません。どうしても必要なことなら神は応
えて下さいます。

 「道ばたにいちじくの木が見えたので、近づいて行かれたが、葉のほかは何もないのに気づ
かれた。それで、イエスはその木に『おまえの実は、もういつまでも、ならないように。』と言われ
た。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。弟子たちは、これを見て、驚いて言った。『どうし
て、こうすぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか。』
 イエスは答えて言われた。『まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持
ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山
に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言っても、そのとおりになります。
 あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。』」(マタイ21:19〜22)

 祈りを決して茶化したりしませんように。ヤコブはこう言います。「あなたがたのものにならな
いのは、あなたがたが願わないからです。願っても受けられないのは、自分の快楽のために
使おうとして、悪い動機で願うからです。」(ヤコブ4:2〜3)

 神は祈りを聴いて応えてくださると信じることこそ、祈りの出発点です。 (文責:野澤)




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