「同労者」第23号(2001年8月)
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聖書講義
夏風邪をひいて医者に行った。我家のかかりつけと言うやつである。前を開け胸と腹を見
せると一言、「親父さんとそっくりだ」である。親子であるし、特に生活を一緒にしている親である から食生活などは同じで体系は似て当然である。頭の毛も少しずつではあるが似始めている。 抜けてくる、薄くなってくると言うことだ。食い止めたい気もするが無駄であろうとあきらめの境 地である。つまらないお話をしてしまった。
今回はどんどんと聖言に目を留めてみたい。今回の主役はサウル親子である。サムエル記
Tの最後の章、31章1〜3節に「ペリシテ人はイスラエルと戦った。そのとき、イスラエルの 人々はペリシテ人の前から逃げ、ギルボア山で刺し殺されて倒れた。ペリシテ人はサウルとそ の息子たちに追い迫って、サウルの息子ヨナタン、アビナダブ、マルキ・シュアを打ち殺した。 攻撃はサウルに集中し、射手たちが彼をねらい撃ちにしたので、彼は射手たちのためにひど い傷を負った。」とある。大変簡潔な書き出しであり史実が淡々と進む。サウル親子にとっての 最後の戦いである。対するペリシテは完全なる勝利を取るべく万全を期してイスラエルに向か ってきた。エフライムのアフェクに集結した彼らは、ギルボア山麓のイズレエル平原に陣取った イスラエル軍に向かって北進した。サウルは危険を感じたが自暴自棄にならずに「主に伺った が、主が夢によっても、ウリムによっても、預言者によっても答えてくださらなかった」(サムエルT 28:6)。これがこの戦いの結果を現していた。サウル王の選びからこの最後の神の沈黙、そし て死に到るまで彼に対するサムエル記の価値観は神の王国の責任者としての彼に対して忠実 に行われている。当然、神に捨てられた者に勝利は無く彼は、王位から神によって死をもって 退けられなければならなかった。彼が王として不十分だったのは彼の資質ではない。勿論賜物 が不十分だったからでもない。その証拠に彼の息子ヨナタンの素晴らしい信仰の功績は、サ ムエル記記者の価値観と霊感の中で見事に現されている。単身敵の中に飛び込みペリシテの 守備隊長を打った。その後も強いペリシテを相手に「大人数によるのであっても、小人数によ るのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない。」と告白しつつ連勝した。 サウルの間違った誓いによって死ななければならなかった彼を民はサウルに言った。「このよ うな大勝利をイスラエルにもたらしたヨナタンが死ななければならないのですか。絶対にそんな ことはありません。主は生きておられます。あの方の髪の毛一本でも地に落ちてはなりませ ん。神が共におられたので、あの方は、きょう、これをなさったのです。」こうして民はヨナタンを 救ったので、ヨナタンは死ななかった。(サムエルT14:45)ダビデに対する父親の恐るべき殺意の 中で、自分の命の危険を顧みずに救助の手を差し伸べ、励ましとしての告白を王子でありなが らダビデに語った。彼はダビデに言った。「恐れることはありません。私の父サウルの手があな たの身に及ぶことはないからです。あなたこそ、イスラエルの王となり、私はあなたの次に立つ 者となるでしょう。私の父サウルもまた、そうなることを確かに知っているのです。」(サムエルT 23:17)ヨナタンはこの先、神の御腕がどのように動くかを良く知っている者であった。父は捨て られダビデの時代が来ることを。そしてそれがこの対ペリシテ戦争であることも。もし彼が望む ならダビデは彼を迎え、新しい時代を共に築いたことだろう。しかし、ヨナタンは自らの責任を 放棄する者ではなかった。彼はサウルに続くイスラエルの戦士であり、最後まで父と共に戦 い、こよなく愛してやまない神の王国イスラエルの為にその職務を全うすることが使命であっ た。そして悲しくも、惨めな父サウルを彼は決して見捨てることは出来なかった。それ以上にヨ ナタンは、霊媒によって呼び出されたサムエルに死を宣告されてもなお逃げずに戦おうとして いる父に最後の誇りを覚えていた。事実、聖書は敵がサウル王に迫りながら彼の気迫に押さ れ飛び道具の集中攻撃に訴えていることを述べている。この様にヨナタンは、父の素晴らしさ の多くを受け継ぎ現している。ここにサウルがその最初に神の選びに与った特別な素材であっ たことを知る。そしてヨナタンは知っていた。自らより数倍優れていた父親が、しかし、神の王 国の長としてその責任に耐えかねて沈んでしまった現実を。自らが次の王になってその汚名を 返上しようとも思うがすでにダビデが選ばれ、王になろうとしている。ヨナタンにとって今できる 事は、神の御旨を黙って受け入れることであった。父と共にこの地上での最後を向かえること である。
私達は、宗教をどこで行っているか。与えられた責任の中でそれを充分に果たしているかを
問わなければならない。現実の生活と宗教生活を切り離し続けていては神を信ずる信仰は意 味をなさない。サムエル記は一人の人間サウルが罪の故に神から絶望的に見捨てられたとし ているのではなく、王としての責任の中で神に放棄されたとしている。彼が王でなかったら捨て られることは無かった。彼が神に捨てられて苦しんだのも王位に係わる部分である。教会に導 かれ、キリストの愛と十字架、贖いを信じ罪赦された者たちが携わらなければならない現場が ある。その現場に神の臨在を求め続け、それに反することを排除し戦い続けなければ神の栄 光もキリストの贖いも御霊なる神の豊な助けも無意味なものになってしまう。否、神は別の器を 立ててご自身の御旨の成就を果たされることだろう。しかし、捨てられた者とその巻き添えを食 ってしまった者の悲しい姿を果たしてどれだけの人が省みるだろうか。サムエル記Tを読み、 サウルとその子ヨナタンの生き様は私達にそれらのことを問い続ける。すぐに結果が出るもの ではなく生涯の多くを費やしながら神の戦士としての責任を果たさなければならない。自らも大 きな畏れを持って神の前を歩み続ける者である。
ペリシテによってさらし者となっているサウルとその子供達の亡骸を、危険を顧みず取り戻し丁
重に葬ったヤベシュ・ギルアデの人々の記事が続いて書かれている。彼らは以前サウルによ ってその敵の手から救助された経緯がある。神のサウルへの豊な省みは、神と共にその責務 を果たしていた時代の功績を決して忘れ去ってはいないことを付け加えて終わっている。 |