「同労者」第23号(2001年8月)                          目次に戻る 

論  説
 ― 「自分の信仰」を確立しよう ―

「もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら・・あなたがたが仕えようと思うものを、
どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。」(ヨシュア24:15)
「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかか
わりがありますか。あなたは私に従いなさい。」(ヨハネ21:22)


 相撲では「自分の相撲を取る」とよくいいますし、野球では「自分たちの野球をする」と言いま
す。個別のプレーでもピッチャーが自分のピッチングができなかったなどといいます。同様に
何々チームは自分たちのサッカーをさせて貰えなかったとか、できたとか、誰某は自分の何の
試合に自分のボクシングしたとかしないとかいいます。
 会社を設立するときには、約款というものを定めて、当社はこれこれを業務とします、これこ
れを売り物とします、ということを決めます。そしてその約款に定めた範囲の業務・商売をしま
す。私たちはキリスト教の団体という立場で、「私たちはアルミニアン・ウェスレアンの信仰をし
ます」と規約に定めています。これは会社でいうならば約款に相当し、私たちの売り物が何で
あるかを示しています。
 筆者が高校生であったとき、学校のある施設に「和而不流(和して流れず)」と書いた額が掲
げてありました。仲良く併し自分を見失わないように、周囲の影響に流されないようにという意
味です。これはどなたかが、自分の教育している高校生に人生訓として教えようとしたものであ
りましょう。聖泉連合も創立三十数年経ち、孤立ではなく、キリスト教の他の団体、他の教会と
の交流が盛んに行われるようになっています。このような他教会との交流は否定されるべきも
のではありません。しかし、自分の信仰を確立しないで、そのような交流に入っていくと「流され
る」ことになります。流されるとは関取でいうなら、「自分の相撲が取れない」ことを意味します。
 もう何々教団だといって張り合っているときではない・・といった言葉を掲げて旗を振る人々も
います。一見真理のように見えますが、いってみれば自分の家庭と他人の家庭をごっちゃにす
る危険を内在しています。確かに張り合う必要はありませんが、自分は何、どういう信仰を自
分の信仰とし、どのような生き様をしているかを知っていて、その上で他の方々、他の教会、他
の団体と良き交わりができたなら幸いなのです。
 私たちはメソジストの流れを汲む潔め派の信仰を掲げている教会に属しています。そして宗
教経験を重んずるのです。
 自分の信仰はこれです、自分の売り物はこれです、といえるものを経験として確立し、「神の
栄えのために尽くさん」というあの讃美歌の歌詞のように生きようではありませんか。



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