「同労者」第23号(2001年8月)
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信仰良書
どのようにして神の国に入るか
ヨハネ3章で神は私達がいかにして神の国に入ることが出来るかを語っておられます。私達
は労苦によって入るのではありません。確かに救いは労苦に値するほど価値あるものではあ ります。もしその道に山や谷があったとしたら十分にそれを乗り越えて行く価値のあるもので す。救いがそのようなあらゆる労苦に値するものであることには疑いの余地はありません。し かし、私達はそれを労苦によって獲得するのではありません。「何の働きもない者が、(中略) 信じるなら、」(ローマ4:5)と記されている通りです。私達は救われている故に労苦するのです。 救われるために労苦するのではありません。十字架は、労苦の出発点なのでありゴールでは ないのです。ピリピ2章12節に「恐れおののいて自分の救い(訳者註:一部の英訳聖書では『自 分自身の所有する救い』の意が込められている)を達成してください」と記されています。私達 は救いを達成する前にまずそれを持っていなくてはならないのです。仮に私が息子に、「一万 円というお金は大金だから、気をつけて使いなさい」と言ったとすると、彼は「それじゃあまず僕 に一万円ちょうだいよ。そうすれば気をつけて使うから」と答えるでしょう。
私がはじめて親元を離れてボストンへ行った時のことを思い出します。私は持っていたお金
を使い果たしてしまい、郵便局へ一日に三度も行きました。家からは一日に一度しか手紙が来 ない事は知っていましたが、ひょっとしたら、と思ったのです。するとついに私は妹からの手紙 を受け取りました。どんなにうれしかったことでしょう。彼女はボストンにはスリがたくさんいると 聞いていて、手紙の内容はほとんどがスリに会わないように気をつけて、との私に対する懇願 でした。しかし私にとってはスリに会う以前にまず財布の中身が必要でした。同様に私達は救 いを達成する以前にまず救いを持つ必要があるのです。
キリストが十字架上で「完了した」と叫ばれた時、まさにその通りだったのです。全ての人は
今やただイエス・キリストの完了された御業を受け入れるだけでよいのです。どんな人も救いを 自分一人の労苦で勝ち取ろうとしている限り望みはないのです。(つづく) |