「同労者」第23号(2001年8月)                         目次に戻る 

聖書研究

仙台聖泉キリスト教会 聖書研究会 1992.7.14および1992.8.25 から
聖霊について(第5回)

仙台聖泉キリスト教会   野澤 睦雄

「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊
がわたしについてあかしします。あなたがたもあかしするのです。はじめからわたしといっしょに
いたからです。」(ヨハネ15:26〜27)

 1.5 聖霊のバプテスマとは何か
1.5.1 聖霊のバプテスマに関する聖書の記述
(1)四福音書すべてに、イエスが聖霊のバプテスマを授けるお方であると書かれています。
「私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私の後から来ら
れる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値打ちも
ありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」(マタイ3:11)
「私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテス
マをお授けになります。」(マルコ1:8)
「私(ヨハネ)などは、そのかたのくつのひもを解く値打ちもありません。その方は、あなたがた
に聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」(ルカ3:16)
「水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。『聖霊がある方
の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプ
テスマを授ける方である。』私はそれを見たのです。それでこの方こそ神の子であると証言して
います。」(ヨハネ1:33〜34)

(2)聖霊がはじめて、"新約"の注ぎを通して信者の内にいらっしゃった時、ユダヤ人には、火と
大風の音と地が震える異象を示されて、その信仰の助けをされました。
「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。する突然、天から、激しい風が吹いてく
るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また炎のような分かれた舌が現れ
て、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させて下さる通り
に、他国のことばで話だした。」(使徒2:1〜4、4:31)

比較:「そのとき、主が通り過ぎられ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。し
かし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられ
なかった。地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすか
な細い声があった。」(列王記T19:8〜13)
 神が私たちに静かに語りかけられる御声を聞きましょう。
「どうか私におことばをいただかせてください。…」(マタイ8:8)

(3)聖霊のバプテスマは入り口であって、それを受けた者は正しく信仰を続けるならば、聖霊に
満たされた生涯を歩みます。
「御霊によって歩みなさい。」(ガラテヤ5:16)

(4)私たちは、聖霊のバプテスマのときに潔められます。
 その潔めは聖霊によります。
 新生の象徴は"水によって洗われる"ことでしたが、聖潔の象徴は"火によって潔められる"こ
とです。食物が火によって焼かれるとき、内側に巣くうバイキンまで死滅し、その力が完全に取
り除かれるのに似ています。人は聖霊のバプテスマによって内側が潔くされるのです。
「…異邦人を聖霊によって聖なる者とされた、神に受け入れられる供え物とするためです。」(ロ
ーマ15:16)

(5)聖くない人は神の前に立つことができません。これは天国に入るまえに必ず与えられなけれ
ばならないものです。
「聖くなければ、だれも主を見る(主に会う)ことができません。」(ヘブル12:14)

(6)聖霊のバプテスマを与えられるためには次のようなことをしなければなりません。
・熱心に求めること
「天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」(ルカ11:13)
・光に忠実であること
「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞い
て、あなたがたに伝えるしらせです。…、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を
歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをき
よめます。」(ヨハネT1:5〜7)
・聖霊がうながしてくださる時に、悔い改めてそこに飛び込むこと
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を
求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。信仰によって、ノア
は、…信仰による義を相続する者となりました。信仰によって、アブラハムは、相続財産として
受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、
出て行きました。」(ヘブル11:6〜8)

1.5.2 アンドリュー・マーレー  「キリストの御霊」に学ぶ
 "聖霊のバプテスマが何を意味するかについては、イエスご自身がその型をお示しになりまし
た。イエスはご自身が受けたものだけをお与えになります。聖霊が彼の上にとどまっていたゆ
えに、彼は聖霊をもってバプテスマを施すことがおできになりました。御霊が下って彼の上にと
どまったとはどのようなことを意味するのでしょうか。彼は聖霊によって生まれ、聖霊の力によ
って、きよい幼児から少年へと成長し、罪とはかけ離れて成人しました。しかも、今ヨハネのも
とに来て、すべてのことを果たそうとして、みずからへりくだって悔い改めのバプテスマを受けら
れたのです。その服従の褒賞として、すなわち、このように全く御霊の支配におゆだねになっ
たことをよしとされた御父の証印として、彼は天的生命の能力をお受けになったのでした。イエ
スがそのときまでにすでに経験なさったこと以上に、御父の内住の自覚とその能力は彼を占領
し、公生涯のお働きに適合するものとしたのです。御霊の導きと力は前よりもいっそう明らかに
意識されるようになりました。(ルカ4:1,14,22) 主は今や聖霊と御力を注がれたのです。
 主は聖霊のバプテスマをお受けになりましたが、まだご自身で聖霊のバプテスマを施すこと
は、おできになりませんでした。彼はまず、ご自身の受けられたバプテスマの力によって、誘惑
に出会ってそれに打ち勝ち、服従と苦難を学び、永遠の御霊によって、神のとそのみむねと
に、ご自身を犠牲として、おささげにならねばなりませんでした。そのようにしてこそ、服従の褒
賞として、新しく聖霊を受けて、ご自身に属する者にバプテスマを施すことがおできになったの
です。(使徒2:33)
 私たちはイエスを見ることによって、聖霊のバプテスマとは何であるかを、教えられます。そ
れは、私たちが、神に帰り新生して神の子どもとして生きることを要求する恵ではありません。
イエスが弟子たちにヨハネの預言を思い起こさせられたとき(使徒1:4〜5)、彼らはすでにこの
恵を受けて新生していたのでした。彼らの聖霊のバプテスマがそれ以上のものを意味していた
ことは明かです。それは彼らにとっては、上げられた主が天から帰って来られて彼らのうちに
住まれることを自覚し、彼らが主の新しいいのちにあずかることでした。それは彼らにとっては
栄光の位に座しておられる主イエスとの生ける交わりによってもたらされる喜びと力のバプテ
スマでした。
 弟子たちがさらに受けるべき知恵も、勇気も、聖潔も、その根底がここにあります。主イエス
が、バプテスマをお受けになったとき、聖霊が彼を御父の臨在との生きた結合のなかにはいら
せたように、今も聖霊は弟子たちをこのような経験にあずからせてくれます。彼らによって御子
イエスはご自身をあらわし、御父と御子は来て彼らとともに住まれるのです。
 「聖霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのをあなたに見えたなら、その方こそ、
聖霊によってバプテスマを授ける方である。」このみことばは、ヨハネのためばかりでなく、また
私たちのためのものです。聖霊のバプテスマが何であるかを知り、どのようにして、また、だれ
からこれを受けるべきかを知るには、御霊が下ってその上にとどまったお方を、見上げなけれ
ばなりません。私たちは聖霊のバプテスマをお受けになったイエスを見上げなければなりませ
ん。私たちは、このお方がどんなにそれを必要としておられたか、どのようにそのために備えを
しておられたか、どういうふうにそれにご自身をゆだねられたか、どのようにしてその力によっ
て死を味わい、再びよみがえられたかを、理解しようと努めなければならないのです。
 イエスが私たちにお授けになろうとしているのはまず彼がみずからそれを受け、ご自分のも
のとなさったものです。彼がみずから受け、ご自身のために獲得されたものは、みな私たちの
ためのものです。"(アンドリュー・マーレー、「キリストの御霊」、いのちのことば社、1987、p.27
〜)

 1.6 神の言葉と聖霊の働きの関係
 イエス・キリストを信じる人に恵みが与えられるために、いくつかのものが働くことが聖書に示
されています。例えば聖書には、
「神によって…」(ヘブル11:6)
「イエスによって…」(ヘブル7:24)
「イエスの血によって…」(ヘブル9:14、22)
「聖霊によって…」(エペソ3:16)
「聖霊の賜によって…」(コリントT12:1〜4)
「(神の、イエスの、聖霊の、聖書の)みことばによって…」(テモテU3:15〜17)
「信仰によって…」(使徒15:9)
「従順によって…」(ピリピ2:6〜12)
「謙遜によって…」(ヤコブ4:6、10)
などと表現されていますが、これらは整理して理解されなければなりません。
 恵みの全体は、神(父、子、聖霊)が下さるものです。恵みを与えるお方は神であるのです。
恵みが与えられる根拠は、イエスの贖いです。信仰は恵みを受ける人の側の条件であって、
謙遜や従順は、恵みを受ける人の恵みを受けるに相応しい心の姿はどのようなものであるか
を示しています。

 聖霊は、実際に信じる人の上に恵みを実現するお方です。
 恵みの実現は、神のことば(聖書のことば、みことば)を通して行われます。「みことば」が受
け取る恵みの内容であり、「みことば」が恵みを受けた人の内に留まるのです。イエスがされた
種まきの譬えの説教に「種は神のことばです。」(ルカ8:11)とあり、その種は「その人の心に播か
れ」(マタイ13:19)ます。みことばを聞いて悟り、みことばに従って生きるとき(信仰の行いを行うと
き)百倍、六十倍、三十倍の実を結ぶことができます。
 みことばと聖霊は別々に働くのではなく「助け主、すなわち父がわたしの名によってお遣わし
になる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべて
のことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ14:26)とイエスが言われたように、聖霊はみことば
を用いて信じる者に働かれるのです。イエスが天に帰られるとき残されたものは「助け主をあ
なたがたのところに遣わします。」(ヨハネ16:7)であり「わたしは彼らにみことばを与えました。」(ヨハ
ネ17:14)でした。
 パウロのエペソの教会の長老達への説教も「あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだ
ねます。」(使徒20:32)でした。
 このように聖霊は聖書のみことばを用いて働かれるのです。みことばによらずに聖霊の教導
を期待することは狂信への入り口です。聖書をよく学び、みことばを通して聖霊が働いて下さる
ことを求めましょう。




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