「同労者」第24号(2001年9月)                        目次に戻る

証詞

一 枚 の 葉 書
荒川聖泉キリスト教会   吉森 一伊


昭和29年夏一枚の葉書が私のもとに届きました。聖宣神学院からでした。
 この一枚の葉書が、私の信仰の生涯を決定することになりました。今その事をしみじみと思
い返し、主の導きと御恵みを心から感謝しています。
 この葉書は、私に集会に出席するようにとの招きの葉書でした。当時私は、荒川区日暮里三
丁目の島崎製作所と言う鉄工所に住み込みで働いていました。昭和27年2月に入社しました
が、当時は電力不足で電休日と言う日があり、朝8時から夕方5時まで電気が来ない使えない
日があって、それが月曜日でした。したがって日曜日には出勤し、月曜日が休日になっていま
した。 
 昭和28年12月5日日曜日の夜、映画を見に行こうと三河島駅前を通りかかった時、そこで
提灯を持った路傍伝道の人達と遭遇したのです。一人の兄弟が「教会へいらっしゃいません
か」と声をかけて案内してくれたのです。日暮里に来て二年近くになるのに、こんなに近くに教
会があるのを知りませんでした。数ヶ月前からラジオ放送の《世の光》という番組を聞いていま
した。羽鳥明先生の大変分かりやすいお話でした。一度教会に行って見たいと思っていまし
た。
 其の夜の説教は【真の幸福】と題した山本岩次郎先生の大変分かりやすいお話で、旧約聖
書詩篇三十二篇からでした。「そのとがをゆるされ、その罪をおほはれしものは福ひなり。」
 私は貧しい家庭に生まれたので、経済的に豊かになれば幸福だと考えていました。しかし其
の夜の先生のお説教で自分が考えていたことが間違いであったことに気が付きました。
【真の幸福】とは、神を信じることで、信じないことは罪である、と教えられたのです。 翌二十
九年四月四日に江戸川で一人の兄と山本岩次郎師によって洗礼を受けました。喜びに満たさ
れてクリスチャンの歩みを始めたかに見えたのですが、何故か集会から遠ざかっていきまし
た。土曜日になると当時献身者として教会に住み込んで居られた、浅沢兄(旧姓吉川兄)、鎌
ヶ谷教会の山本望師(当時小学生)が、週報を持って訪れて下さいました。そして五月、六月、
七月と過ぎ、八月、神学院からご奉仕に来られた秋山神学生の訪問を受けました。神学院に
戻られて、早速葉書を書いて送って下さったのです。葉書の内容は、気軽に礼拝にお出かけ
下さい、出席されたら後の席で扇子を使ってもよろしいですから・・・と書かれてあった様に記憶
しています。
 当時教会堂には扇風機もなく、会堂内は暑かったのです。信徒の皆さんは額に流れる汗を
拭きながら説教を聞いていました。勿論説教されている先生は汗でぐっしょりでした。
 その後何時の頃だったか天井に大きな扇風機が二機取り付けられました(故土屋兄が献納
された様に記憶している)。あとさきになってしまいましたが、久し振りで教会へ、それも礼拝に
出席したのは初めてでした。九月の第一日曜日の礼拝、その日も暑かったのでした。一番後
の席に座りました。講壇に向かって左側には畳の席があり、座布団を敷いて座って説教を聞
いているお年寄りの姿もありました。
 その時から集会に出席する様になった十月、尾久の佐藤家での家庭集会に出席しました。
初めての事でした。賛美して、聖書が開かれ、祈りが捧げられ、証しがあり、岩次郎先生のお
奨励があり、感謝の祈りが捧げられ、賛美のうちに献金をして終わり、茶菓が出されて、しばし
交わりの時がありました。大変ホットな集会に心一杯恵みを頂いて帰路につきました。道すが
ら一兄から「早天祈祷会にいらっしゃい」と、誘われ、数日後に思い切って早天祈祷の座に出
席しました。部屋の同僚はまだ眠っているので、音をたてないように部屋を出ました。空には星
が輝いていたのを覚えています。何日か過ぎて、祈るうちに示される事がありました。「おまえ
は、其のままでは天国には行けない。」と神の声を聞いた様な気がしました。尚数日祈ると、御
言葉が示されました。「時は満てり。神の国は近かづけり。汝ら悔い改めて福音を信ぜよ。」 
マルコ 1の15でした。
「神様を信じないことが罪である。」と教えられて、私は「信じます」と告白し、洗礼を受けまし
た。しかし神様は「悔い改めて、信ぜよ。」と御言葉をかけて下さいました。洗礼を受けてから
八ヶ月、十二月四日の夜の伝道会が終ってから、神と山本先生の前に罪を告白して、主が私
の罪のために十字架に架かって死んでくださったことを心から信じました。神様の恵みは私の
心を溢れんばかりに満たして下さいました。
 そしてその年クリスチャンとして初めてのクリスマスをお祝いすることが出来たのです。それ
から年末感謝会があり、除夜会を経て新年を教会で迎え、文字どうりクリスチャンとして新しい
年を進発しました。
 元旦礼拝、そして教団の新年聖会と出席しました。教会の集会には休まず出席する様になっ
て二ヶ月余り、今度は聖書の御言葉が私の心をとらえて放さなくなりました。その御言葉は「神
に近づけ、さらば神なんじらに近づき給はん。罪人よ手を浄めよ、二心の者よ心を潔よくせ
よ。」ヤコブ書4の8でした。 
 その中でも、「二心の者よ」の御言葉が私の心から離れなくなりました。それで私は、この御
言葉が要求していることは何であるかを、集会に出席する度に響いてくるこの御言葉の意味
を、具体的に考え始めました。
 私は昭和26年(1951)茨城県から上京する時から、将来は歌手になりたいと考えていまし
た。日暮里の工場に住み込みで入社して、しばらくしてから社長の許しを得て秋葉原のある音
楽院へ、週一、二回三ヶ月程通いました。そこで発声とコーリュウーブンゲンを習い、NHKの
のど自慢の予選を受けました。結果は失格でした。でも諦めきれずに楽譜を買ってきてはラジ
オを聞きながら、次の機会を狙っていました。又ラジオの修理をしては、たまに小遣いを稼いで
いました。神様はこれを示されこの二つを捧げる様に要求されました。しかし私は「悪いことを
しているわけではないので良いではないか」と考え、御言葉に反発しました。
 「集会にも休まず出席します。聖書も読みます。信仰を続けていきますから二つの事もやら
せて下さい。」と祈りました。しかし時間がたてば経つほど、日が過ぎれば過ぎるほど、心と頭
の中は重苦しくなっていきました。そして2月の終わりの日曜日のことでした。礼拝から帰った
ら部屋には同僚3人が居なかったので、私は意を決して今まで買い集めた楽譜全部とラジオ
に関する本を、穴の明いた石油缶の中に入れて焼いてしまいました。
 そして一言「神様、信じて参ります。」と祈ったことを覚えています。その後の祈祷会でこの事
をお証しさせて頂きました。
 それからの私は「これでいいのだ」と云う納得と安堵感が私の心を占領しました。もしも社長
に「信仰をやめないのなら会社を辞めてくれ」と云われても、信仰は捨てないと決心して教会生
活を第一にして来ました。会社での仕事の時間以外は、ほとんど教会に来ている時間の方が
多くなりました。聖日には、教会学校の教師として、奉仕させて頂き、礼拝で説教を聞いて一週
間の糧を魂に頂き、夜の伝道会のために準備祈祷会から参加して、三河島駅前の路傍集会
へ初めは提灯を持ち、やがて楽器を与えられてブラスバンドに加えて頂きました。火曜日には
有志による路傍伝道に参加しました。最初に参加したのは第二日暮里小学校の正門前でし
た。山本岩次郎先生と共に数名の兄姉が自転車の荷台にアンプを載せ、大きなスピーカーを
持って行き、校門に大きく書いた賛美歌を引っかけて賛美し、証しをし集会をしました。水曜日
は祈祷会、木曜日はブラスバンドの練習、金曜日は各例会がありました。土曜日には教会学
校の子供達のために、聖句をガリ版で印刷し、カットの絵に色を塗り穴を明けてリボンを結ん
で栞を作りました。この栞作りには、佐藤淑子姉も協力してくれました。共に教会学校教師とし
て、同じクラスを担当していました。
 この様に一週間を恵みに満たされ、喜んで奉仕をさせて頂いているうち、昭和31年夏私の
体が変調をきたしている事がわかりました。かかりつけの医者の診断では、「胃がくびれている
ので、肩がこり、頭が重く、食事も美味しくないのだ」と言われ、筋肉労働をさけるためには会
社を辞めなければならない破目になってしまいました。診断書は今も手元にありますが、病名
は「砂時計胃」と書かれています。この事を主牧先生にお話して、神様のお導きを祈りました。
 幾日か過ぎて、主牧先生から話しがあるからと言われて、教会に参りました。部屋に入ると
佐藤兄が来ていました。お話の席で先生から「君佐藤清一兄の所で働いてはどうかね」と言わ
れ紹介して下さいました。私は即座に「宜しくお願いします」と言って、お世話になることになりま
した。
 その後で岩次郎先生は「君達結婚しなさい。」と言われたのです。私はびっくりして言葉もあり
ませんでした。たった今、仕事のことが決まったばかりで、健康に自信がないし又蓄えがある
わけではないし、住む家はなし・・。しかし神様は全てを備えて下さいました。 
 岩次郎先生、ワカ先生のご労により、昭和31年(1956)11月13日に婚約式、婚約期間一
ヶ月(家内は)自分の手でウエディングドレスを縫い上げて、翌12月12日祈祷会の夜に佐藤
兄の妹と私、私の妹と佐藤兄と云う、二組合同の結婚式を挙げて頂きました。
 昭和34年7月18日長女が誕生ルツ記3の18より「女子よ座して待ち事の如何になりゆくか
をみよ」待子と命名して頂きました。そして翌昭和35年8月家内が、住民検診を受けたところ、
結核と診断され、ただちに入院する様にと言われてしまいました。早速ワカ先生にお話したとこ
ろ、先生のご労で、小平市にある松ケ丘病院に入院する事になりました。そこには、戸辺姉が
入院されていました。信仰の友が居られるところに入院する事が出来たのは、大変心丈夫でし
た。しかし長女待子は私の田舎の両親に預け、三人バラバラの生活が始まりました。何時退
院出来るか分からない暗黒の日々が続きました。
 主牧先生、ワカ先生のお祈りとご指導、兄弟姉妹の熱いお祈り、佐藤家の皆さんの祈りと助
けによって、この苦難を乗り越える事が出来ました。入院生活10ケ月、病が癒されて退院する
ことが出来ました。昭和40年には長男が、42年には次女が与えられました。
 新会堂建築のお話があった時、以前岩次郎先生が言われた事を思い出していました。それ
は、この地に恒久的な教会堂を建設したい、鉄筋コンクリート4階建てで1階には、無料の床
屋さんを、2階は礼拝堂、3階は教会学校、4階に牧師館と、私の頭の中に浮かび上がってい
ました。いろいろの事情で、木造の新会堂が出来上がりましたが、神様は私の家族に不思議
な事をなさいました。
 新会堂の上棟式の時、棟木を挙げてくれた、中川ホーリネス福音教会の小林正寛兄と次女
の多恵子が、主牧先生ご夫妻のご労によって結婚に導かれました。3人の子供の内2人は教
会から離れていますので、末娘の為に祈りました。「クリスチャンと結婚が出来ます様に」と。も
しこの娘が、教会を離れるような事があれば、私は荒川教会には出入り出来ないと思いまし
た。神様は私の願いを聞いて下さいました。私にはこの世での遺産は何も有りませんが、信仰
の遺産を末娘が受け継いでくれたことに、心から主なる神様に感謝を捧げるものです。
 もし荒川教会が無かったら、また山本岩次郎先生ご夫妻が、この地で伝道されていなかった
ら、私の人生はどの様になっていただろうかと思い、また信仰の無い人生に平安は無い事を
思う時、不思議な神様の導きの中に歩ませて頂いているのを覚えます。信仰生活47年、結婚
生活45年、心の鈍い遅々たる歩みの私を、先生方のお祈りとご指導、兄弟姉妹のお祈りとお
交わりに励まされ、支えられて今日ある事を心から感謝をしています。
 新会堂が献堂され、空調設備の整った会堂で説教を伺い、暑いときも、寒いときも、心地よ
い集会に出席する時、いまは亡き山本岩次郎先生には申し訳けない気がいたします。 今夫
婦二人、日々主の恵みと助けを頂きながら、信仰の生涯を全うしたいと願いつつ歩んでおりま
す。
 冒頭に申し上げました一枚の秋山先生の葉書は、此処まで私を導いて下さいました。心から
の感謝と共に、全ての栄光を主に帰し奉ります。
 「神、主よ。私がいったい何者であり、私の家がなんであるからというので、あなたはここまで
私を導いて下さったのですか。」(サムエルU7:18)



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