「同労者」第24号(2001年9月)                          目次に戻る 

論  説
 ― 真 の 敬 老 ―

「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならな
い。わたしは主である。」(レビ 19:32)
「よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことば
と教えのためにほねおっている長老は特にそうです。」(テモテT 5:17)


 9月15日は敬老の日として国の祭日になっています。
 この日、多くの教会で高齢の方々に贈り物などをして"敬老"を表しています。
このようなことにはえてして内的というか真実というか心からというようなものと外面的なことと
があります。
 外側のことについて、例えば電車で席を譲るといったことが話題になります。加えて、譲って
貰いたくない、とか、といった言葉も聞かれますし、一方、譲ってくれた、まだ、まだ道義地に落
ちることはないと喜ぶ方もいるといったことが取りざたされます。これらは外側についてのこと
です。いたわりであったり、贈り物という"ものを差し上げる"行為によってそれを示しています。
 内なる敬老、すなわち心がその方を敬うということは難しいことです。
 一方、敬う心はあっても、形に示さないと心を示すことができません。ですから、人は形を通し
て心を顕わそうとします。
 ざっくばらんな話し、愛し敬われる人と、形(心ではなく贈り物)だけを貰う人が生まれること否
めません。それは贈られる方、贈る方、双方に原因があるでしょう。
 電車で席を譲って貰いたくないと感じる人には、老人と思われたくない心理が働いていること
でしょう。しかし、席を譲って貰いたくない人でも、愛し敬われたくない人はいないであろうと思
われます。愛し敬われるか否かはその方の結んでいる実・・すなわちその行いが愛であるか、
謙遜であるか、柔和であるか、寛容であるか、誠実であるか、等々によるのです。

 冒頭に掲げたみことばは、旧約と新約のあり方の違いを示しています。
 旧約においては、まず形を示さなければなりませんでした。白髪の老人の前では立ち上がっ
て敬老を示しました。
 新約では尊敬、即ち心の中で敬うことが求められています。そして一方では、尊敬に値する
長老の姿をも示しています。

 敬老の日、敬って貰う側の方々も敬う側の方々も立ち止まって、自らの結んでいる実を問い
直そうではありませんか。そして、この世の人々に勝る真の敬老をしようではありませんか。


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