「同労者」第24号(2001年9月)
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信仰良書
(前号より)恐らくニコデモもそう言ったように、それは非常に不可解なことです、と言う人々も
おられるでしょう。このパリサイ人は顔をしかめて、「どうして、そのようなことがありうるのでしょ う」と言います。それらは彼の耳にはとても奇妙に響きます。「新しく生まれるだって?御霊によ って生まれるだって?どうしてそのようなことがありうるのだろう」。非常に多くの人々が言いま す。「それを論理的に説明しなさい。もしそれが出来ないなら、他人にそれを信じるように願う のはやめなさい。」もし論理的に説明しろと言われたら、私は率直に「出来ない」と言います。 「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知 らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」(ヨハネ3:8)私は風についてすべてを 理解してはいません。それを論理的に説明しろと言われても、私には出来ません。ここでは真 北に吹くかも知れませんし、100キロ先では真南に吹くかも知れないのです。もしかすると20 0〜300メートル進んだだけでこことは全く正反対の向きに風が吹いているかも知れないので す。このような風の流れを説明しろと言うのでしょうか。しかしもし私がそれらを説明出来ず、理 解出来ないからといって、風などというものは存在しない、というような主張をする立場をとって いたらどうでしょうか。小さな女の子でさえこう言うでしょう。「私の方があの人より風のことを知 ってるわ。何度もその音を聞いたり顔に吹きつけるのを感じたことがあるもの。この間は私の 傘を吹き飛ばしたし、帽子を飛ばされた人も見たことがあるわ。森の中の木々や畑の中の実 った作物に吹きつける風を見たことがないのかしら。」
風などというものは存在しないと言えるのでしたら、御霊によって生まれるということを否定す
るのも無理もないでしょう。しかしまさに真実に風が私の顔に吹きつけるのを感じるのと同じよ うに、御霊が私の心の中に働いておられるのを感じるのです。それを論理的に説明することは 出来ません。私は創造の御業を論理的に説明することなど絶対に出来ません。この世界を見 ることは出来ます。しかしどのようにして神がそれを無から創り出されたのかを説明することは 出来ないのです。それにもかかわらずほとんど全ての人々は創造の力が存在したことを認め るでしょう。(つづく) |