「同労者」第25号(2001年10月)                        目次に戻る

証詞

「ノアズアーク」
仙台聖泉キリスト教会   石井 和幸



(2001.9.9 仙台教会伝道会の証詞の原稿を頂きました。…編集委員)

「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる
特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもな
く、ただ、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1:12〜13)


  1988年9月25日は、私の救いの記念日であります。今度で13回目を迎えようとしておりま
す。実は、昨日小国での、ノアズアークのコンサートの中でも証しさせていただきました。その
時の原稿が今も私の手元にあります。よく説教は生物(なまもの)だといわれます。そうすると、
証しも生物なのかなあ、けれど、今日だったらまだ賞味期限きれていないかなあ、そんなこと
で、今日ここでもう一度 お証しさせていただきたいと思います。
 昨日すでに聞いている若い兄弟方もいますが、どうぞ我慢していただきたいと思います。 
 私がドラムを始めたのは、中学1年の時です。なぜドラムを始めたかというと、私の教会で、
バンドをやっていまして、そのバンドのドラマーがアメリカに留学することになり、ドラムを弾く人
がいなくなったからです。 当時仙台の教会にいた山本 出先生もドラムの経験があるのです
が、出先生は「ベースをやりたい」ということでした。そこである人から、「ギターやキーボードを
やるより、ドラムをやってくれないか」と、誘われたわけです。
 私は、ドラムについては、「かっこいいな」とは思っていましたが、まさかこの自分がやるとは思
ってもみませんでした。ドラムというと、普通は、しっかり者、リズムをきざむのは俺にまかせ
ろ、といったような心強い人間がやるといいのですが、当時の私は、それとは程遠い人間でし
た。 だいいち私は、小学4年から中学3年まで学校でいじめられました。人付き合いはうまくい
かないし、学校の勉強はやらない。家に帰れば、両親に口答えして、妹をいじめていました。 
両親が教会に通っていましたので、私も神の存在は知っていました。けれど本気で信じてはい
なかった。こんな、いじめられっこで、人づきあいがうまくいかない中学1年生が、高校・大学
生、社会人といった先輩たちと一緒のバンドでドラムをたたくのです。出先生は一生懸命「ドラ
ムは和幸、和幸なんだ」と言って面倒をみてくださいました。教会の先輩たちが どんなに僕の
ために忍耐してくれていたか、今考えても胸があつくなります。 
 教会のバンドだけでなく、毎週の礼拝や集会にも出席していました。けれども、中学生の私
は、賛美歌を心から歌えないのです。父からは、「お前はいつもぼそぼそとしか歌わない。賛
美歌をちゃんと歌いなさい」と注意されていました。けれど、声が出ない。なぜかというと、自分
は、神様に対してとってもうしろめたい、悪いこといっぱいしているし、学校のまわりの人、親や
先生の言うことを聞かない。だから、自分と神様との距離が、何万光年とはいかなくても、すご
く離れているような気がしたから、賛美歌を小さな声でしか歌えませんでした。 当時の私には、
学校の友人、教会の人達、みんな立派に見えました。そして、自分は何でこんなにだらしなく、
何もできないように生まれてきたのだろう、と思うようになり、自分が大嫌いになりました。
 そんな時、「今日の夜の集会で、ドラムをたたいてくれないか」と教会の人に(父を介してです
が)声をかけられました。その時私は中学3年生になっていました。私はその誘いを断りまし
た。なぜかというと、学校の期末試験期間中だったからです。 けれど、出演を断ったからとい
って、家で真面目に勉強したわけではありません。いつものように、ボーッとして結局何もしな
いまま夜の伝道会に出ました。集会では予定どおり、バンドによる特別音楽のコーナーが、ド
ラム抜き、私抜きで行われました。しかし、そのコーナーの最後に「今日ドラムをたたかない
か」と誘ってくれた嘉納先生が(当時は嘉納兄でしたが)言ったんです。「他の人はどうか分かり
ませんが、このバンドのメンバー5人 は、神様に従って行きます。」と。私は思いました。僕は
「神様に従います。」って言いきれるのかな?
 私はその時、神様と一緒にこれから人生歩んでいくか、それともひとりぼっちで歩んでいくか、
決断しなければならないと思いました。なぜ今決めなければならないと思ったかというと、従う
かどうかあやふやなのに、またなんかのバンドでの奉仕の機会に「従います」なんて人前で言
ったら、それは偽善になってしまうからです。 集会が終わって、私はクリスチャンの父に問い掛
けました。「神様は本当にいるのか?」と。小さいころから教会に通っていたはずの私が、そん
な質問をしました。それだけその時の私は神様を求めていたからです。神様は父を通して、
「医者が必要とするのは立派な人ではなく病人なんだ。ただ自分がしてきた悪いこと、罪を認
め、お詫びして、イエス様の十字架を信じればいい」と語ってくれました。そして、その日、光明
先生の前で悔い改めのお祈りをし、救われることが出来ました。
 その日から、私は賛美歌がとっても楽しく歌えるようになりました。本当かよ?とつっこまれそ
うですが、事実なんです。 父は、そんな私の姿を見たからでしょうか、「これはお前が救われた
記念の塚だ」といって、ミニコンポでしたが、ステレオを買ってくれました。 
 それは今でも、朝の目覚ましとして、また私の作曲や編曲の七つ道具として機能していま
す。 また、実は当時、ドラムも、小さいころから習っていたピアノも、もう飽きてしまっていて、
好きじゃなかった。けど、神様のご奉仕として、みんなと一緒にバンドを続けていくうちに、へぇ
ー、ドラムって、ピアノって面白いじゃないか、何より、それを通して神様を賛美していくことっ
て、素晴らしいことじゃないかと、自分が変えられていきました。バンドのみんなに、僕の足りな
いところを我慢してもらいつつ、コンサートをしてきました。かつて父に「お前は本当に賛美の声
が小さいなあ」と言われた自分が、こうしてノアズアークで今も奉仕していることを、本当に感謝
しています。
  …私はそんな事を昨日の小国でのコンサートで証ししました。 すると、コンサートが終わって
から、白鷹教会の原田 仲兄が、「和さんにそんな過去があったんですか」と話しかけてくれまし
た。彼は、ノアズアークでベースをやっていましたが、学校が忙しいとのことで、ノアズアークか
ら脱退していました。けれど、昨日はスタッフとしてコンサートに来ていました。実をいうと私は、
小国の教会にきた新来会者に向けて証しすることもそうなのですが、何よりも、ノアズアークの
若い2人のメンバーに対し、また、スタッフとして参加している仙台と白鷹の若い後輩達に向け
て証ししようと、示されました。それだけに、彼が私に声を掛けてくれたのは感謝でした。私も
「そうだね普段そんな話、しなかったよね」と、彼と話す時がもてたことを感謝しています。また、
帰りの車の中で、相沢 友幸兄と話をしました。彼は、「僕も教会でドラムをたたくのが楽しみで
しょうがないんです。今年あと何回伝道会でバンドの御用ができるか、そう考えただけでワクワ
クしてくるんです。」と、嬉しそうに話してくれました。 私は、この土日、スケジュールがめいいっ
ぱいでした。土曜は小国でのコンサート、そして今日は、礼拝の後野球、その後ノアズアークの
ミーティング、そして夜は伝道会と。フルコースの土日を乗り切るために、先週の平日5日間、
何とか工夫して仕事を切り上げよう。スタミナを残しつつ、かといってちゃんと責任を果たしつ
つ。けれども、こうして日曜日が終わろうとする今、私は一つのことに気づかされました。 それ
は、私は一人でこの土日を乗り切ろうとしていたけれども、実は、私の手となり、足となって、共
に働いてくれる後輩達や先生、先輩がいたということです。 まるであたかも一人だけで乗り切
らなければと、錯覚しやすい者ですが、私と一緒に乗り切ってくれる教会のみんながいるんだ。
そのことを今痛切に感じています。感謝です。 今私は、男・石井和幸が信仰者として、このまま
終わってしまうか、それとももうワンステップ上にいくことができるか、瀬戸際の戦いの中にいま
すが、これからも神様と共に歩んでいきたく、思っております。(終) 



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