「同労者」第25号(2001年10月)                          目次に戻る 

論  説
 ― 結 実 を 考 え よ う ―

「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父が取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を
結ぶために刈り込みをなさいます。」(ヨハネ15:2)


 いよいよ秋に向かいます。日本の農作物の収穫はやはり秋が中心です。実りの秋と呼びな
らし、私たちは秋に穀物や果実などの実を思い浮かべます。
 私たちはキリスト教の中でも潔め派に所属しています。「救い」すなわち罪の赦しと新生と、
「潔め」すなわち罪の性質の潔めと聖霊の満たしを重要な信仰の経験として位置づけていま
す。
救いも潔めもそれを受けた私たち自身がそれを知ることができますし、知っていなければなら
ないものです。まずそれが皆さんの人生最大の課題であると考えてください。その理由は死を
迎える事態を考えるとわかります。私たちは、救われることなく潔められることなく死を迎えるこ
とができるでしょうか?
 さて、クリスチャンになって長い信仰生活をすることが許されている人々の間で、しばしば言
われることは、潔められた後はどうするのか?ということです。
 聖書はその点に明快に答えを与えています。それは「善い実を結べ」ということです。
 救われたなら「悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」(ルカ3:8)
 潔められ聖霊に満たされたなら「御霊の実」(ガラテヤ5:22)を結びなさいと命じられています。
 私たちが注意しなければならないことは、冒頭のみことばに、イエスが述べておられるよう
に、実を「結べ」という命令がされているのであることです。ともすれば実は私たちの中に聖霊
が勝手に造り出して下さるもののように錯覚します。「結べ」という命令を行うものは私たち自
身なのであって、聖霊はその助けをして下さるのです。
その内容は、「不品行、汚れ、好色、…ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のもの」(ガラテヤ5:19
〜20)である「肉の行い」(ガラテヤ5:19)を退け、御霊の実である「愛」(コリントT13:4〜)を行うこと
が、善い実を結ぶことです。
私たちの結実の場がどこにあるのかもよく知っていなければなりません。私たちはこの世の
人々と話をするとき、彼らの土俵に引き込まれる危険性があります。先日、9月11日ニューヨ
ークの貿易センタービルがテロで爆破されました。そのため私たちも戦争が身近なところにあ
ることを感じました。様々な国や地域ではいまなお戦争が絶えず、飢えた人々が数え切れない
ほどいます。同様に国内に目をむけても、不況がつづき多くの人々が失業している、環境ホル
モンやゴミ排気ガスなど環境の問題、地球の温暖化、心を病む人々の急増、自殺者の急増、
学級崩壊、エイズなどの疾病、・・それをどうするのか、あなたのキリスト教はそれにどう答える
のかと問われたらきっと答えに窮するでしょう。
 これらを踏まえてボランティア活動や募金といった事柄に協力することが私たちの結ぶべき
善き実なのでしょうか?
答えは聖書に求むべきです。・・群衆の中のひとりが、「先生。私と遺産を分けるように私の兄
弟に話してください。」と言った。すると彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがた
の裁判官や調停者に任命したのですか。」そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、
よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないか
らです。」・・(ルカ2:13〜15)
 イエス・キリストはこのような問題にわけいることを拒絶なさいました。イエス・キリストの時に
も当時のユダヤはローマ帝国の支配下にあり、貧困と為政者の腐敗、宗教の堕落、などなど
社会問題は山ほどあったのです。けれどもその中にあってイエスは神の国はあなた方の心の
中にあると告げられたのです。
 私たちの実を結ぶ場教会の中にあり、その尺度は神の聖にあります。神はこういわれます。
「わたしが聖であるから、あなたがたも聖でなければならない。」(ペテロT1:16)
 「教会の建設」と言われますが、それは私たちが善い実を結ぶことのできるものに建て上げ
られることに他なりません。そしてその善い実はバラバラの個人が実を結ぶというよりも、教会
の中の一つの枝として実を結ぶのです。そこにどのような実が求められるかも決定されます。
「一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大
ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。私
たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、
その信仰に応じて預言しなさい。奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。勧めを
する人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈
善を行なう人は喜んでそれをしなさい。」(ローマ12:4〜8)
 私たちは教会の必要とは全く関係のないところで善い実を結ぶことはできません。

10人の義しい人がいたならソドムは滅びなかったように、この末の悪しき世の中にあって、私
たちが義しい者であり続けるとき、この世は滅びないのです。私たちが義しく生き、善い実を結
ぶことは、ボランティア活動よりも募金よりも遙かに勝る貢献をこの世にもたらします。
 実りの秋、私たちは幹であるイエス・キリストにつながり、その枝として善い実を結ばせていた
だきましょう。
「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中に
とどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」(ヨハネ15:5)


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