「同労者」第25号(2001年10月)                          目次に戻る

信仰良書

 − 神 へ の 道  (18) 
D.L.ムーディー 著   仙台聖泉キリスト教会 山田 大 訳


 すべてのことを説明するのは不可能である

 私には説明することも論理的に説くことも出来ないことがらを、それでも私が信じているという
ことは非常に多くあります。ある地方巡回のセールスマンが、かつてこんなことを聞いたことが
あると言っていました。「イエス・キリストの使命と宗教は啓示されるべきことがらであって、研究
されるべきことがらではない」と。パウロは、「生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召
してくださった方が、・・(中略)・・御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき」(ガラテヤ1:
15−16)と言っています。
 ある若者の一団が行動を共にし、田舎から出て来ていました。彼らは旅行中、論理的に説明
出来ないものは何も信じないと決心していました。一人の老人がそれを聞いて、早速彼らに言
いました。「君たちは論理的に説明出来ないものは何も信じないそうだね」彼らは「はい、その
とおりです」と答えました。すると老人は「今日私がこの汽車に乗っていると、がちょうも羊も豚
も牛もみんな草を食べているのに気がついた。君たちは、どうやって同じ草がそれぞれ毛や羽
や剛毛や羊毛に変わるのか説明出来るかね。君たちはそれが事実であることを信じるかね」
「ええ、信じますよ」彼らは言いました。「信じざるを得ないでしょう。たとえ僕たちがそれを理解
できなくとも」「それでは」と、老人も言いました。「私もイエス・キリストを信じざるを得ないのだ
よ」
 そして私自身も、改心した人々、矯正された人々を見るときに、人間の新生を信じざるを得ま
せん。非常に最悪の罪の中にいた人々さえ新しくされ――地獄の穴から引き上げられ、岩で
あられる方に足をつけ、その口に新しい歌をおかれ――たのではないでしょうか。彼らの舌は
かつて呪いと冒?に満ちていましたが、今は神への讃美で占められています。古いものは過ぎ
去り、すべてが新しくなりました。彼らは矯正されただけでなく、新しく生まれたのです。キリス
ト・イエスにある新しい人なのです。



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