「同労者」第26号(2001年11月)                        目次に戻る

証詞

新たに生れる恵み
仙台聖泉キリスト教会   山田 緝


「人もし新たに生まれずば、神の国を見ること能わず。」(ヨハネ3:3)


 私は1929(昭和4)年5月26日、東京都東中野で生まれました。そして旧制女学校までそこ
で育ちました。女学校4年生のとき、家族に連れられて戦禍を避けるため疎開し、宮城県伊具
郡丸森町に移り住み、宮城県立角田女学校に転校しました。
 その転校にあたり、負けん気の強かった私は、転入試験があると聞いて「なんだこんな田舎
の学校に入るのに、試験か。やーめた。学校に行かない。」と云って帰ってきてしまいました。
しかし、周りの人々になだめられ、また学校側も折れて転入試験なしで入れてくれることになっ
たので、結局角田女学校に行きました。
 当時の多くの若者たちがそうであったように私も「お国のために生きる」という思想がすっかり
身についていて、東京にいたとき学徒動員があり日立に行って飛行機工場の手伝いをしたりし
ました。しかし女学校4年のとき終戦を迎え、何のために生きているのか分からない有様でし
た。しかし、妹や弟たちの顔を見ると、彼らのために生きていてやらなければと思いました。女
学校は4年で終えても、もう一年勉強して5年で終えてもよかったのでしたが、私は4年で卒業
しました。卒業後しばらく家事手伝いをしながら家にいましたが、やがて、家にいるなら手伝い
に来てと頼まれ、丸館中学校の事務員になりました。そこに勤務しているうちに、教師達の下
品な会話に嫌気がさし、その勤めをやめました。
 何の資格もなかったので、このままでは妹や弟たちの面倒を見てやれないと思い、美容師の
資格をとることにし、仙台に出て丸伊美容学校に入学しました。6カ月通って資格が取れたと
き、その学校の先生に勧められて、そのまま丸伊美容学校の寮に寝泊まりしながら、学校の
美容室に勤務させて頂くことになりました。
 その美容室の寮で生活していた1951(昭和26)年6月30日に、仙台市公会堂でポケット聖
書連盟の、当時ラレーと呼んでいた大集会がありました。公会堂は住んでいたその寮と近かっ
たので宣伝カーのPRを聞いて友達と二人でその集会に行きました。公会堂は満員で中には
入れませんでしたが、外で「塵か運命か」という映画を見せてもらいました。集会を開いた方々
の説明では中で上映しているものと同じ映画だとのことでした。そこで歌われた「慈しみ深き友
なるイエスは」という讃美歌が心に深く残りました。それははじめて聞いた讃美歌でした。そして
小さな聖書をもらって帰りました。自分の部屋にもどってその聖書を開いてみると、ところどこ
ろにアンダーラインが引いてありました。そのアンダーラインのある箇所を拾い読みしていった
ところ、「まことに誠に汝に告ぐ、人あらたに生まれずば、神の國を見ること能はず」(ヨハネ3:3文
語訳)というみことばに行き当たりました。そのとき私は"神様がおられるのだ、神の国がある
のだ"と分かりました。そしてひとりで神の前に自分の罪を言い表して祈りました。その夜はそ
のまま休みましたが、翌朝目が覚めたとき嬉しくて嬉しくてしかたがありませんでした。
 その後の集会に全部出席しました。美容師の先生は、「耶蘇はだめ」と云ってけなしました
が、私は先生のことばをききいれませんでした。そのため先生は私のことをすっかり取りつか
れてしまったといってあきらめました。
 救われて私は神様のこと、聖書のことが解るようになりました。私の価値観が変わり、この世
の富が宝ではなくなり、終戦時に失っていた希望を取り戻しました。
 私は丸森に帰り、家を改造して美容院を開きました。その丸森の家に小島先生が来て下さ
り、家庭集会が行われました。やがて仙台教会の会堂建築が始まり、私も一所懸命献げさせ
て頂きました。
 会堂建築が一段落すると、・・私は結婚は嫌だ、だれとも結婚したくないと思っていたのです
が・・小島先生から「結婚しなさい」と云われました。それで「結婚しなければいけませんか」と食
い下がったのですが、神様にお祈りをしましたら、"お従いしなさい"と示されました。そこで先
生にお従いして結婚する決心をしました。結婚相手の男性(亡くなった主人)は、足が悪い人だ
った・・電車事故で、片足の膝から下が無かった・・ので、周りの人々から「なんでそんな人と結
婚するの」と散々云われました。しかし私は神様のお導きと信じてお従いしました。
 やがて子供が二人与えられました。
 主人は洋服の仕立屋でした。だんだん世情が変わり、既製服が売られるにつれて仕立てで
洋服を買う人がいなくなりました。そのため仕立屋ではやっていけなくなりました。主人は借金
を重ねて倒産しました。それで私が美容室を開きました。その美容室の名はエステル美容室と
名付けさせて頂きました。その頃山本わか先生が仙台教会の婦人会に来て下さり、お証詞と
お勧めをしてくださいましたが、その中でエステル記が開かれ「あなたがこの王国に来たのは、
もしかすると、この時のためかも知れない。」と語られました。私はそのお勧めに大変感動し、
献身を新たにさせて頂きました。私が美容師になったのは、この時のためであったと思いまし
た。
 私の従兄弟に亀山という人がおり、未信者ではありますが、その私たちの困難の時に大変
助けてくれました。彼とその子供たちは今もその業を祝されています。「我は汝を祝する者を祝
し汝を詛ふ者を詛わん」(創世記12:3文語訳)とのみことばが心に通います。彼も公会堂の集会
に一緒に行きましたが、救われませんでしたが・・。
 私たち夫婦は子供二人を献身させたいと願いました。そして二人を神学校にやりました。願
い通り献身まで許されましたが、その後二人とも職を辞し平信徒になりました。それも最善をし
て下さる神様の御手にお委ねしております。
 私は脳内出血で倒れましたが良く処置して頂くことができ、半身に不自由は残りましたが、長
く元気に生活しております。主人は突然天に召され私が残されましたが、子供夫婦と孫たちに
囲まれて生活しております。
 今は全てが恵みと感謝しています。公会堂の集会とその夜の祈りは、私を神と共なる生活に
導き、素晴らしい人生を与えて頂く門口になりました。ルツが「おも意わずもエリメレクのやから
族なるボアズのはたけ田のうち中にいたれり」(ルツ記2:3文語訳)と導かれたように、私に善き道
と、私に関わる善き人々を与えて下さった神に感謝しています。
 



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