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          「同労者」第26号(2001年11月)
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          巻頭言 
          「執事もまたこういう人でなければなりません。謹厳で、二枚舌を使わず、大酒飲みでなく、不
           
          正な利をむさぼらず、きよい良心をもって信仰の奥義を保っている人です。…ひとりの妻の夫 であって、子どもと家庭をよく治める人でなければなりません。(テモテU3:2〜12) 
           私は教会の役員をさせていただいていますが、上記のみことばを基準として教会の役員を選
           
          んだのでしたら、子どもを従順にさせていないという理由で基準を満たさないため役員にはな れません。ですから、不足なものであることを承知で、神と教会、また牧師から役員に任じられ ていると思っています。 
           また聖泉連合に所属する教会全体でも、このみことばを厳格に適用したならば、多くの役員
           
          が罷免されることになるでしょう。 
           これは役員、長老と言われる人々に対する基準として述べられているのですが、若い人々に
           
          対しても同様に基準と言えることがあります。例えば、「不信者に添うなかれ(不信者と結婚し てはいけない)。」(コリントU6:14文語元訳)と聖書は明快に述べています。連合の中にも、不信 者と結婚する男女は多数おります。それは、基準に満たない役員がいるのと同様、基準に適 わない信仰生活をしている一般の信者もその不足を承知で許容されている事を意味します。 
           これらの現実は教会に何をもたらすでしょうか。まず第一に、牧師が説教において、また
           
          様々の時に教えることにおいて、聖書が述べている基準を明快に説教できなくなる恐れがあり ます。子女が教会に座っていない役員たちを前にして、「長老は、子どもを従順にならせている 人でなければいけない。」と説教するでしょうか。その子女が不信者と結婚している親たちや、 不信者と結婚している本人達を前に、不信者と結婚してはいけないと、説教するでしょうか。 
           しかしそれがなされないなら、教会は変わって行くことができません。
           
          
           牧師が、聖書の述べているとおりのみことばを取り次ぐ説教を、はばからずにできるために
           
          はどうしたらよいのでしょうか。それができるか否かは、牧師以上に信徒に、殊に役員達の信 仰のあり方にかかっていることは言うまでもありません。 
           教会の次の世代の役員達が、基準に適うものであることができるよう願っています。そのた
           
          めにできることがあったらその労を担わせて頂きたいと思います。 
           私たちが完璧なもので、不足な点がなかったなら恵みは小さいものとなるでしょう。しかし、不
           
          足があるから恵みも豊にあるのです。役員はこの程度でいいのだ、若者は不信者と結婚して もいいのだ、子どもを片親だけクリスチャンの家庭で育てていいのだ、…と言ってしまった時、 その人またその教会には豊かな恵みは注がれないにちがいありません。不足を不足と認め、 謙って生きるならば、次の時代を担う人々によって、基準は満たされていくことでしょう。  |