「同労者」第26号(2001年11月)                          目次に戻る

ショートコラム ねだ

 − トイレのボタン  −

  "馬鹿も休み休み言え!"などとお叱りを受けることもあるが、今日は早速そのお叱りを受
けそうなテーマである。
 そう、あれ。男子トイレの便器の上についているボタン、押すと水が流れて・・。
 あのボタンを押そうか放っておこうか迷うことはないだろうか。
 ことの発端は幼少のころから始まる。母の教えは実に偉大である。ウンコ、オシッコは、ばば
っちいものと教え込まれ、触ったらすぐ手を洗わなければいけないのだった。おかげで見ただ
けでゲロがでるような時もあった。
 会社の同僚に、トイレにいっても手を洗わないヤツがいた。「どうして手を洗わないのかい」と
聞いてみたら「みんながトイレにいった手で蛇口の栓をひねるでしょう。自分のからだはきれい
だから蛇口の栓に触るくらいなら洗わない方がまし」と言いおった。
 最近勤め先の同じ建物に入居している企業に、元教授とおぼしき老先生がいる。この先生
は必ずトイレの戸を開け放ったまま用をたす。なぜか。その戸は、いったん閉めると内側から
取っ手を引かないと開かないのである。だから戸に触らずにトイレから出てくるためには、戸を
開け放っておかなければならないのである。戸の取っ手は、蛇口の栓と同じという訳である。
 確かに触るまでの時間は、蛇口の栓もドアの取っ手もトイレのボタンと数秒の差しかない。
 だからあの人間が近寄ったことを感知する近接スイッチのついたものが大流行である。蛇口
も手を近づければ水が出る。便利になったものだ。あの装置にはちゃんとコンピュータが仕込
まれてある。動作の仕方を決めてそれをRAM(ラムと呼んでいる)という半導体メモリーに記録
してある。電源が切れると指令を忘れて誤動作するので、メモリーバックアップ電池・・CR247
7といって直径が24mm厚さが7.7mmのリチウム電池・・なるものがついている。だからあ
の水を流す装置が某電池メーカーのドル箱なのだそうだ。陶器のメーカーが儲けようが、電気
メーカーが儲けようがご勝手に。こちとらが便利であればそれで結構だ。
 年とともに母の教えも薄らいで、トイレのボタンに触るくらいへっちゃらになった。そしてそれよ
りも、自分の排泄物の臭いを次の人に嗅がせる方が気になるようになった。 "便所そうじをし
ていると、いいお嫁さんになれるのよ"と教えられるのと似ているでもないが。
 振り返ってみればこのボタン、実によく人間模様を語っているではないか。
 私たちのキリスト教が、このボタンに触らないで済ますようなキリスト教となっていないか問わ
れるのである。


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