「同労者」第26号(2001年11月)                         目次に戻る 

聖書研究

仙台聖泉キリスト教会 聖書研究会 1993.7.20 から
聖霊について(第8回)
―― 聖霊とパウロ ――


仙台聖泉キリスト教会   野澤 睦雄

「主は(アナニヤに)こう言われた。『行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イス
ラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のために、どんなに苦しま
なければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。…』 そこでアナニヤは 出かけて言っ
て、その家にはいり、サウロの上に手を置いてこう言った。『兄弟サウロ。あなたが来る途中で
お現れになった主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満
たされるためです。』」(使徒9:15〜17)


  3.聖霊とパウロ
3.1 福音展開におけるパウロの位置づけ

パウロという人物が異邦人に対する福音宣教のための神の選びの器であることは、私たちの
よく知っていることです。(使徒9:15〜16)などを参照。
 福音が異邦人にも伝えられることは、イエス・キリストのことばにもあります。「あなたがたは
行って、あらゆる国々の人々を弟子としなさい。…」(マタイ28:16〜20)
その他、(マルコ16:14〜16)、(ルカ24:46〜49)など。
 しかし、イエスはユダヤ人の間にしか宣教されませんでした。「わたしは、イスラエルの家の
滅びた羊以外のところには遣わされていません。」(マタイ15:24)
「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、…地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒
1:3〜8)つまりその理由は、異邦人への宣教は聖霊が来られてから行われることであったから
です。
 聖霊のバプテスマを受ける以前の弟子たちは弱く、キリストは自ら語っておくことがおできに
なりませんでした。「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたが
たはそれに耐える力がありません。しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたが
たをすべての真理に導き入れます。」(ヨハネ16:12〜15)
 教会の誕生と、その初期的な働きはペテロたちイエスの直弟子に委ねられましたが、地の果
てまでイエスの証人となる役目はパウロに委ねられたのでした。

・教会の誕生
「その日、三千人ほどが弟子に加えられた。」(使徒2:32〜41)

・サマリヤ人への宣教
「ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。…エルサレムにいる使徒
たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところに
遣わした。…彼ら(サマリヤの人々は)聖霊を受けた。」(使徒8:1〜17)

・異邦人の教会への加入
「ペテロがなおもこれらのことばを話し続けているとき、みことばに耳を傾けていたすべての
人々(コルネリオとその全家の人々)に、聖霊がお下りになった。」(使徒10:44〜48)

・J.ストーカー「パウロ伝」抜粋に学ぶ
 6 キリストはひとたびこの地上で父の栄光を現し、あがないのわざを完成された。しかし、そ
れで十分とは言えなかった。彼の来臨の意味を世に説き示す必要があったのである。この地
上におられたあのかたは、どういうかたであったのか、彼のなさった働きは詳しくはどういう事
であったのか、という問いに対して、最初の使徒たちは、きわめて簡単な、平凡な解答しか与
えることができなかったし、世界の知性を満足させるような形で解答しうるだけの知的な幅も、
教育もなかった。幸いにして、このような問いに学問的に正確に答えられることが、救いにとっ
て必須のことではない。大多数の人は、イエスが神の子であり、罪を取り去るために死んで下
さったこと、また、彼を救い主として信頼すれば、信仰によってきよめられる、というようなこと
を、教わったまま信じているが、そういう人たちは、少しでも言葉をつけたしてこの信仰を説明
しようなどとしだすと、文章一つ言うごとにまちがってしまうのである。それにもかかわらず、キ
リスト教が、道徳的な方面ばかりでなく、知的な方面においても勝利を得るものであるとすれ
ば、教会にとって、その主たるかたの栄光と、彼の救いのみわざの意味の深いところを、正確
に説明してもらうことが必要であった。
 イエスが、自分は何であり、何をしようとしているかについて、太陽の光のように明かな理解
を持っておられたことは、いまさら言うまでもない。しかし、彼がご自分の心のうちを弟子たちに
残らず明かせなかったということが、実は、彼の地上生涯の一つの悲劇であった。彼らは、そ
れを聞くに耐えないほど無教育であり、受け入れるだけの理解力持っていなかった。したがっ
て、イエスは、真理の最も深いものについては語らないままで地上を去り、やがて時を経て、聖
霊が、教会がそれを把握しうるように導きたもうことを、信頼されるほかはなかったのである。
それに、実際語られたことでさえ、不完全にしか理解してもらえなかった。…
 
 8 キリストが説明しないまま残しておかれなければならなかった事で、一つ重要な事柄があ
った。それは、彼ご自身の死のことである。実際に起こる前にそれを説明することができなか
った。この事、すなわち、なぜそれが必要であったか、またそれがもたらす幸いな結果は何で
あるか、という点を説き示すことが、パウロの思想の中心的課題となった。しかしながら、キリ
ストの出現に関する事柄で、彼の不断に求めてやまない知性が彼を絶え間なくこのテーマをよ
り深いところへと追求し続けていたことがわかる。彼の思想の進展は、ひとつには、彼自身が
キリストを知る知識において進歩していったその自然的な進歩によって規定された。彼は、自
分の体験からそのまま語っているからである。また、一つには、次々と直面しなければならな
かったさまざまな形の誤った教えによって規定された。そして、これは、キリスト教会において、
その最初から、異端の教えが、真理の明確な表現を生み出すきっかけとなったように、彼にと
っても、真理の把握を促し、展開させるための、神の摂理による手段となったのである。しかし
ながら、彼の生涯がそうであったように、彼の思想の主動力はいつもキリストであったし、彼を
してキリスト教の不滅の思想家たらしめたのも、この窮めがたいテーマに生涯取り組んでいっ
た彼の真剣な態度なのである。

10 キリスト来臨の主要な目的の一つは、ユダヤ人と異邦人の間の隔ての壁を打ち破って、
人種や言語の別なく、救いの祝福を万人のものとすることであった。しかし、キリストご自身
は、この変革を自ら実現することを許されていなかった。彼がイスラエルの家の失われた羊だ
けにつかわされていたということは、彼の地上生活の不思議な制約の一つであった。福音をパ
レスチナの国境のかなたにまでもたらし、それを次から次へと新しい国民に紹介してゆくという
ようなことが、人並みすぐれてあたたかいキリストの心にどんなに似つかわしい仕事であったか
は、想像に難くない事であり、また、おそれ多くもこういう言い方が許されるとすれば、もしあの
時助かっておられたら、確かにそのような生涯を歩まれたに違いないのである。しかし、その
命は人生半ばにして断たれ、この仕事を、あとに続く者たちの手にゆだねられるほかはなかっ
た。

11 パウロが舞台に登場する以前から、この仕事はすでに開始されていた。ユダヤ人の偏見
は部分的には破られ、キリスト教の普遍性はある程度まで実現を見ていたし、また、ペテロは
バプテスマによって最初の異邦人を教会に受け入れていた。しかし、キリストの初めからの使
徒のうちには、事態の緊急さによく応えうる者が見あたらなかった。彼らのうち、ユダヤ人と異
邦人の完全な平等という思想を把握して、それをあらゆる具体的な事例に対してためらうこと
なく適用してゆくだけの雅量のある者はひとりもいなかった。異邦人世界を大規模に回心させ
てゆくに必要な数々の賜物を合わせ持っている者が、いなかったのである。彼らは、ガリラヤ
の漁師であり、自分の故国パレスチナで教え、伝道するのが、せいいっぱいであった。しかし、
パレスチナの外には、ギリシャ、ローマの広大な世界が広がっていた。とてつもない人口をか
かえた、権力と文化、娯楽と事業の世界である。そのような所へ、福音のメッセージを持って出
かけて行くには、無限の融通性、教育、深い人間的な共感力、また人柄の幅の広さを備えた
人を必要とした。ユダヤ人に対してはユダヤ人のようになれるばかりでなく、ギリシャ人に対し
てはギリシャ人のように、ローマ人に対してはローマ人のように、未開の人に対しては未開の
人のようになれる人、会堂でラビを相手にすることができるばかりか、法廷では高慢ちきな役
人に向かい、また、学舎にたむろする哲学者を向こうに回せるような人、海でも陸でも平気で
旅行でき、どんな時にも沈着さを失わず、どんな困難にもおびえない人、まさにそういう人が必
要なのであった。ころれほどの人は、キリストの一番弟子たちの中にはいなかった。しかし、キ
リスト教はそのような人を必要としていた。そして、その人はパウロにおいて見いだされたので
ある。
 12 初めは、他の使徒たちのだれよりも、排他的なユダヤ教の特異性や偏見を徹底して守
っていた彼も、いまや、これらの数々の前歴のジャングルを脱出し、キリストにあっては万人皆
平等であることを認め、この原則を、あるゆる問題に対してとことんまで適用していった。彼は
異邦人伝道に全身全霊を打ち込んだ。彼の生涯の記録は、すなわち、彼がこの召しに対して
いかに忠実であったかの記録である。これほどのいちずさ、これほどの打ち込みようを、私た
ちはいまだかつて知らない。これほど超人的な、うむことを知らないエネルギーを知らない。あ
れほど数々の困難に立ち向かって勝利し、あれほど数々の困難に、どんな事があっても喜び
耐えた人を、私たちは知らない。イエス・キリストは、この彼に内住して、ご自身の伝道に設け
られていた限界ゆえに完成することの許されなかったその仕事を、完成しようとされた。そして
彼の手、彼の足、彼の舌、その頭脳、その心を駆使しつつ、世界伝道のために出て行かれた
のである。
(この章つづく)
 


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