「同労者」第27号(2001年12月)                          目次に戻る

祈りの小部屋

− バウンズ著、「祈祷の目的」から(2)(つづき) −

 先月号に載せたバウンズ「祈祷の目的」の中にある、"・・彼(神)を捉える事が出来ました。
私は容易に父を去らせません。・・"と言っているブラムウェル氏という方のことばをもう少し考
えておきたいと思います。
 神を捉えて放さないということは、ヤコブが「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださ
らなければ。」(創世記32:26)と言った経験であり、エリヤが「人の手のひらほどの小さな雲が海
から上っています。」(列王記T 18:44)ということばを聞くまで祈りを止めなかった経験と似てい
ます。
 本年2月号に紹介した、祈りを依頼されて、数人の方々が一心祈ったという三浦綾子さんの
祈りに関する記事もこのことを表しているのではないでしょうか。私にも祈りに参加させて頂い
た経験があります。祈祷会の時、ある先生(牧師)が「このことの為に祈って下さい。」と泣いて
訴えたことがありました。それを聞いた後、祈りの度にまた日常の生活の合間にも絶えず先生
の涙が思い浮かんで、祈りに加わることができました。私がその問題が解決されたことを聞い
たのは8ヶ月ほど後でしたが、それを聞くまで祈りは続きました。
 神が私を祈りの学校に入れて下さったと感謝しています。その学課の鍵は牧師先生の涙でし
た。(文責:野澤)




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