「同労者」第27号(2001年12月)
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ショートコラム ねだ
「人間は考える芦である。」
「我思う。故に我あり。」
などということばだけは知っている、「哲学」なる変な学問がある。
そもそも学問というものは「○○学」といえばその「○○」についての学問というのが世の常識
である。考古学なら「古(いにしえ)」を論じ、社会学なら「社会」を論ずる。しかるに「哲」に関す る学問なぞあるものか。・・実はこれは某哲学の先生の本からの受け売りである。・・つまり、新 しい学生が来る度に"哲学とはなんぞや"という講義が繰り返される訳である。
料理は「鉄人」であるが、哲学にはソクラテス、プラトン、パスカル、デカルト、カントなどなど、
「哲人」と呼ぶに相応しい数々の人物がいた。
我々は語源を知らずにプラトニックラブなどと使っているが、何のことはない"プラトン風の愛
"と、上のプラトンのことを言っているのである。"プラトン風"の中身をイデア論といって、目に 見える物の背後に、そのものの「イデア」があるというのである。目に見える三角の背後には、 三角のイデアがあり、与謝野晶子の詠い上げる"熱き血潮の愛"の背後には、"イデアの愛"が ある。これすなわちプラトニックラブである。実際に使われる言葉としては原意を離れてニュア ンスが変わってしまったが。
ちょっとおまけだが、この"プラトン風の××"が気になる事件があった。若い頃原理、原理と
騒ぎ立てる輩が筆者の通う大学の学内を闊歩していたが、ムリムリその原理なるものを聞かさ れたのである。そのご高説をうかがっていると何のことはないイデア論なのである。今も各所で やっている。若者よ。惑わされるな。
本論にもどるが、「哲」とはなんぞやと考えてみた。
聖書でいうならば哲学はヨブ記にある。
創造を論じ、天地を論じ、動物を論じ、植物を論じ、誕生を論じ、死を論じ、人生を論ずる。正
邪善悪を論じ、慈善を論じ、臼を挽くはしための権利をも論じる。富を論じ、名誉を論じ、楽し みを論じ、迫害を論じ、侮蔑を論じ、苦難の意味を論じる。
知識を論じ、そして神をも論じる。
シエンキビッチはノーベル文学賞受賞作品「クォバディス」の中で、"ギリシャ人は「知」を創造
しローマ人は「力」を創造した。キリスト教徒は何を創造したか?"との質問にパウロにこう言わ せている。−−「愛を」と。哲学は愛をも論じる。
筆者はこの世の人々の論じている哲学とは、「神がいない神学」であると断じる。これすなわ
ち「人学(じんがく)」と呼ぶのが相応しい学問である。 |