「同労者」第27号(2001年12月)                          目次に戻る 

論  説
 ― シメオンとアンナに学ぶ ―

「そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの
慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。また、主のキリストを
見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。彼が御霊に感じて宮にはいると、
幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の慣習を守るために、はいって来た。する
と、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。『主よ。今こそあなたは、あなたのし
もべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たから
です。御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラ
エルの光栄です。』」(ルカ2:25〜32)
「また、アセル族のパヌエルの娘で女預言者のアンナという人がいた。この人は非常に年をと
っていた。処女の時代のあと七年間、夫とともに住み、その後やもめになり、八十四歳になっ
ていた。そして宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた。ちょうどこのとき、
彼女もそこにいて、神に感謝をささげ、そして、エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての
人々に、この幼子のことを語った。」(ルカ2:36〜38)


 クリスマスがやって来ます。聖書にはイエス・キリストの誕生の出来事に関わる様々な人々の
姿が記されています。
 その中に上のみことばに示されているシメオンとアンナという二人の方の記録があります。老
人と老婆といえる方々です。
 教会を考えてみると、それを構成している人々は、子供から老人までいます。成人に達した
人々を取り上げても、一般的な区分表現ですが、独身青年、既婚青年、中年、老年がいます。
もちろん男女を含めてのことです。そしてこれらの区分に従って、それぞれがだいたい似通っ
た課題とまた担うべき教会の労苦があります。
 独身の青年でしたら、自らの信仰の確立と共に伝道や様々な教会の直接的な労を担うこと
ができるでしょうし、自らの仕事や一緒に信仰を建て上げてくれる相応しい配偶者を与えられ
てクリスチャンホームを造って行くといった課題があるでしょう。
 結婚している若い方々には、夫婦の調整と共に子供を育てることに多くの労をすることになる
でしょう。この世の人々のしているいわゆる養育や学校教育だけであったなら"放って置いても
子供は育つ"でかまわないかも知れません。今の日本では本人がその気になりさえすれば、勉
強の機会や仕事はそれなりにたくさんあります。けれども子供に神を畏れること、イエス・キリ
ストを信じ、聖書を信じ、そこに示されている価値観を彼ら自身のものとさせることは並々なこ
とではありません。そのことに心を砕いてその時期を過ごすことがその課題となります。
 中年とか壮年とか熟年と呼ばれる年齢になり、子供も育ち、段々親離れして行き、仕事でも
それなりの地位となった人々にとっては、なお情熱をもって神とみことばに仕えることが課題で
しょう。いつの間にか情熱が薄らぐのが人間の常です。この世においても教会においても、もっ
とも力のある年代なのです。その力を神の為に用いさせて頂くことは幸いです。
 さて老人と呼ばれるようになってきた人々はどのように考えたらよいのでしょうか。年をとった
からもう神のために働くことができないのでしょうか。確かにこの世の仕事を引退すれば収入も
減り、献げることもままならなくなるでしょう。若い人々のように伝道伝道と飛び回ることもでき
ないでしょう。出て行くとかえって足手まといになったり、働きの妨げになったりするでしょう。そ
のようなことは放っておいて、生き甲斐を見出すために趣味を持たなければいけないのでしょ
うか。
 シメオンとアンナという二人の人物の姿にそのヒントがあります。彼らは夜も昼も神に仕え
た、つまり祈りの人であったのです。なぜ祈らなければいけないのでしょうか。その祈りはもは
や自分のためではありません。自分のためでしたら、神に願って"イエス・キリストによって天国
にだけは入れて頂けますように"それで十分なのです。けれども後に続いている人々は、これ
から事を進めていかなければいけないのです。
 次の時代を担っている人たちは、十分な状況でしょうか。「マケドニヤとアカヤとの信者の模
範になった」(テサロニケT1:7)テサロニケ教会の人々のようでしょうか。そうではないならば、そこ
に祈りの重荷があるのではないでしょうか。
 私たちは主の牧場の羊です。その群に弱い人々はいないのでしょうか。病む人々はいない
のでしょうか。介護を必要とする人々はいないのでしょうか。心が神から離れている人々がいな
いのでしょうか。もしいるとしたなら、とりなしの祈りをする人々を必要としているのです。
 かつてはこの世の仕事に精を出して、密室はおろか公の集会出席もままならない生活をおく
らなければならなかったかも知れません。しかし引退したなら、時間は十分にあります。三時間
でも四時間でもあるいは一日中でも神と共にいることができます。ままならない教会の現状を
抱えて、神の前で涙を流そうではありませんか。祈ることのできる霊性は、祈りを実行した人に
与えられます。
 クリスチャンの老人にとって、取りなしの祈り手となることをさしおいて、この他に"クリスチャ
ンとしての生き甲斐"のある老後はありません。
 ですからあの古い讃美歌の作者と共に、これを自分のこととし、長い時間をこれに用いて、
    みことばに背き
    迷いいでし子を
    今宵主のもとに
    呼び返したまえ
と祈ろうではありませんか。

 


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