「同労者」第27号(2001年12月)
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11月19日(水)
(前号のつづき)バスは右に左にカーブを繰り返し遂に死海とマサダを遠望する所に来た。河
谷氏は言った「死海は海抜マイナス400メートル、地球で最も低い陸地であり我々はついに視 線に死海を捉えました」と。
マサダの西側麓(ふもと)にバスは到着。普通は東側からケーブルカーで城砦(じょうさい)に登
るのだが、これもコースの関係上らしい。バスは我々を下ろしたら大迂回して東側ケーブルカ ー発着場で我等の下山を待つという。ケーブルカー下山最終便が4時というのに既に3時を回 っている。登山に自身のない方はそのままバスで東側山麓まで行き、其処で待つようにと言わ れたが、2〜3人を残して大半がマサダ城砦を目指した。有馬師は石神さんに付き添って登っ た。彼は私に対して「先生は先に登って下さい。私は石神さんとゆっくり登ります。上での見学 が出来なければしなくても良い。とにかくケーブルカーに間に合えばいいですから。」と。私は二 人を置いて行く済まなさを感じたが早く登って見たい思いと狭い道を3人並んで登る困難を理 由に、お先へ失礼した。途中77才の瀬間さんが苦しそうに佇(たたず)み孫娘の黒沢明美さん が、おばあさんを背負おうとしている所へぶつかった。これは見過ごしに出来ない。「私がおん ぶしましょう」と遠慮する瀬間さんをおぶって石段を登ること数十段、さすがに大変だったがと にかく頑張り抜いた。見守る婦人たちも涙を流していたようだったが言った以上、途中でアゴを 出す訳には行かない。足を踏ん張って登頂成功、最後は私も限界で足もガクガクだった。(こ れが縁で現在に至るまで賀状の交換が続き瀬間さんからは毎度マサダの礼が書かれてくる= なつかしく忘れられない思い出である)。
マサダの城砦は無言の強烈なアッピールを与えて呉れる。石神さんも遂に有馬師に助けら
れ後藤師に手を引かれて登頂成功。80才の最高齢者の意気込みに敬服あるのみ、またそれ を助ける主の聖徒たちの謙虚さに恵みの証しを見せられた。しかし、それはケーブルカー最終 便発車の数分前であった。自分を犠牲にして尽くす有馬師にまたしても頭が下がる。そう言え ば彼はシナイ山に登らなかった石神さんの為に山頂から石を拾ってきて上げた。彼は言った 「誰か友達や見てくれる人のある方には私は用はない。私は助け手のない人の為に役立ちた いのだ」と。そしてシナイ山頂から記念の石を拾ってきたり山の草を分けて上げていたのだ。
マサダについて私は恥ずかしい程無知であった。エルサレム崩壊後、此処に立て籠もった
1000人程のユダヤ人たちがローマの精兵を相手に3年間抗戦し遂に最後は、捕囚の恥より 神に生きようと集団自決したという。城砦に踏み込んだローマ兵たちは勝利の凱歌より敗者の 思いに打ちのめされたと言う。彼らは身を殺しても魂まで奪えなかった敗北感をうけたのだ。私 自身この話を聞き、この城砦を見た時、遠い昔を忍びつつ身震いするような感動を受けた。果 たして私の信仰はどの程度のものなのか。マサダの岩穴の井戸も驚異だった。追い立てられ るようにケーブルカーに乗り下山。バスはまだ到着していなかった。山麓で録音中、ラジカセを 落とし壊してしまった(それに気づかずガリラヤまで録音し続けたのが後で分かった)。一同は 山麓の売店に駆け込むのでガイド氏は「みなさん、とこへ行ってもお土産品に魅力があるよう ですね。しかし先ず案内、説明を聞いて下さい。聖地旅行が第一で買い物は第二にして下さ い」と。ズバリそのもを言われてみな爆笑が起きた。バスを待つ間、ソドムの毒リンゴを教えて もらった。また団長の後藤師のインタビューに答える私を下川師のビデオが撮影していた。よう や漸くバスが到着、薄暮れ死海を南下、一度ホテルを間違えるハプニングもあったが、とにか くソドムのモーリヤガーデンホテルに着いた。初めの予定では夕方、死海の遊泳を楽しむこと になっていたが、時間的に無理だった。(予定外のアブダット巡りが入ったこともあって)。
部屋に落ち着き有馬師が傍らのドアを開けると何と隣室に通じてしまい大あわて。隣室にア
メリカ婦人たちがいた。彼女たちもびっくりして大笑いしたらしい。まさしく"アイ アム ソウリー "だった。有馬師も苦笑して「何か物入れかと思って開けたのに」と驚いていた。 |