「同労者」第28号(2002年1月)                          目次に戻る

証詞

 − 主の恵みに導かれて  −

仙台聖泉キリスト教会  石井 はる


「人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。」(詩篇37:23)

 私は1913(大正2)年3月7日、仙台市大町三丁目にある土井晩翠のお宅の向かいにあっ
た、商店の連なる長屋で豆腐店を営む両親のもとに長女として生まれました。父の名は佐藤
養治、母の名はたつよといいました。
 やがてその長屋は売却され、住人はすべて他に移転しなければならなくなったため、父は近
所の国分町三丁目にあった空き地を借りて家を建てました。私は北五番丁にあった高等小学
校を卒業し仙台電話局の交換手になりました。
 やがて職場の友だちに誘われて、青葉荘教会に行きました。当時植松先生という方が牧師
をしておられました。引き続き教会に通いましたが、職場の勤務時間は大変不規則で同じ集会
にいつも出席するわけにはいきませんでした。けれどもいろいろな集会がありました。友だち
の中には、悔い改めをしたとか、罪が分かったとかいう方がいました。そして"救われました。"
といってすっかり変わって行くのを見せられました。私にはどういうことか分かりませんでした
が、それを求めていました。
 一月ほど教会に通った、1931(昭和6)年5月18日に、職場の休憩時間に外を見ていたと
き、造り主なる神様を本当に信じることができました。 そのとき私は18歳でした。信じたら自
分の罪が分かりました。罪を犯したら相手の人に赦してもらうことが必要だと教会で教えられて
いましたので、その罪の始末に苦しみました。神様を信じて行くか、今まで通り生きて行くか、
どちらにするかせまられました。そして罪の始末を致しました。一例ですが、職場で買った物を
分割して給与から支払うことがありましたが、私は請求されないのをよいことに、支払わないま
まにしていたものがありました。私は係の方に申し出て赦していただき、支払いをいたしまし
た。そのように心に知れる罪の始末をしました。
 集会に行くと先生は、玄関で待っていて分かりましたか、と言われるのでしたが、私がその経
験をお話しすると大変喜んでくださいました。そして家や職場にきてくださいました。職場には教
会にいっている人たちが何人もいましたので。家族も喜んでくれて、両親は私を教会の集会に
出してくれました。
 私は身内の者たちを教会に連れてゆくことに努めました。叔父は盲学校の先生をしている人
でしたが、父の家に同居していました。私はその叔父を教会に連れてゆきました。また妹や職
場の友たちをさそいました。残念ながら救いの恵みに与かったのは身内では私一人だけでし
た。
 私は教会からほんの半町(1町=36間、約65メートル)の所に住んでいましたので、教会に
よく出入りし、先生の子供さんたちのために裁縫をするなどのお手伝いをさせていただきまし
た。
 戦争中青葉荘教会の中島牧師は憲兵に拘束され刑務所に入れられてしまいました。教会の
役員の方が私の主人となった石井清兄との結婚の話をしてくれました。私は家の事情でとても
お嫁には行けないと思い、後込みしました。けれどもその役員の方は強くその話を押されまし
た。父は商売をやめて軍需工場に働きに行き、私はお嫁に行けることになりました。私自身は
独身のままでいてもよいつもりでしたが、母は私が嫁に行かないといけないと大変心配してい
ました。それ以前にも結婚の話はあったのですが断ったのでした。 結婚した時私は30歳、主
人は29歳でした。
 主人は経木(きょうぎ=杉、檜などを長方形に薄く削ったもので、菓子、魚などを包んだりす
るのに用いる。)を売りに北海道から仙台に来た人でした。戦時、戦後の社会情勢のため大き
な荷物を輸送することができず、経木の商売は続けられませんでした。そして職業をいろいろ
変えなければなりませんでした。目が大変悪かったのですが、職を得るため法経専門学校の
夜学に通ったりしました。けれども行く先々で周りの方々に大変助けられました。警防団に入り
ましたが、それがもとになって左官組合の事務に勤めることができました。さらに左官さんを相
手に鏝(こて)を売る商売を始め、それが現在の石井商工となりました。
 戦争中父は焼夷弾に直撃され亡くなりました。兄弟は全部で8人でしたが一番上の弟は従軍
し、行方不明のまま帰ってきませんでした。二番目の弟も従軍しましたが彼は無事帰還しまし
た。終戦の年に長男が生まれました。
 主人は仙台教会のはじめとなったポケット聖書連盟主催の公会堂の集会に、私には黙って
一人で出かけました。そして何回か小島先生の集会に通ったようでした。そして、私に教会を
転会すると言い出しました。青葉荘教会はお世話になった教会でもありますし、私は転会したく
ありませんでしたが、教会の牧師夫人や役員さんが"ご主人と一緒がいいですよ。"と勧めてく
ださいました。そこで私たちは3人の男の子を連れて、今お世話になっている仙台教会に転会
しました。その後娘のさち子が生まれました。私の仲人をしてくれた方は、洋服屋でしたが戦災
に遭ったため、宮城県南部にある角田(かくだ)に引っ越し、そこで再び洋服屋を営んでいまし
た。戦後の食料の無い時に、角田は仙台よりは田舎でしたので食料も入手しやすかったた
め、助けて頂きました。
 主人は先に天に召されましたが、あのとき教会を転会すると言ってくれたことを今になって感
謝しています。
 現在、よく米寿と呼ばれる88歳です。この年まで元気で過ごすことが許され、子供たち孫た
ちと教会に座らせていただいて感謝です。とりわけ孫の和幸が信仰に歩んでいてくれることは
大きな感謝です。神様の恵みに導かれて天に帰るまで信仰を全うさせていただきたいと願って
います。
 


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