ると思います。教会の先生に伺うことは勿論一番ですが、それを独り占めしないで、すこし公開 してください。それを皆で考えると、きっと皆さんにとって益になると思います。 質問の送付先は巻末にあります。 先月の質問の回答例(作成者:野澤) 1.サタンと悪霊たちと人間の病気の関係について説明してください。 でした。 ここで考えているのは、病気と医療の問題ではなく、キリスト教における宗教上の見地としてで す。病むということの悩みをなおざりにしているというお叱りを受けるかも知れませんが、お許し 頂きたい思います。この問いに答えるためにはまず病気と罪との関係について聖書の見解を 把握することが必要でしょう。 <病気に対する見解> "病気とは何であるか" これは難しい問題です。病気の反対は健康と理解されていますが、「病気とは健康でないこ と」と定義され、「健康とは病気でないこと」と定義されたりしています。WHO(国連世界保健機 関)の定義では「健康とは病気や異常がないだけでなく、身体的にも社会的にもよい状態であ る。」となっています。これでは健康な人はごくまれで、ほとんどの人が病気か不健康であるこ とになってしまうと指摘されています。そして"病気"とか"異常"とか"よい状態"を別に定義しな いと意味不明になってしまいます。しかしここではその定義問題には深入りしないことにしま す。私たちが、心身の具合が悪い状態を指すものとして、通常使っていることばの示す「病気」 であるとしておきましょう。大切なことは病気の状態と健康な状態との間に断絶がない、これは 病気、これは健康と明確な線引きができない場合が多いということです。つまり健康から病気、 果ては死の直前までの状態がすべて普通の人に起こりうることだということです。 "病気は罪、罪の結果、罪に対する審判・刈り取りか?" このことがキリスト教の神学者たちの間で議論されます。 アダムが罪を犯さなかったなら、病気が人類にもたらされることは無かったでしょう。そういう視 点からは病気は人類の罪に対する審判・刈り取りであるということができます。けれども個人 の病気については、罪が原因の病気もありますし、そうでない病気もあり、必ずしも罪の結果 で病気になっているわけではありません。その例は以下の聖書の記事で分かります。 「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質 問して言った。『先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人 ですか。その両親ですか。』イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもあ りません。・・』」(ヨハネ9:1〜3)イエスはこの人が盲目であることは罪のためではないと明言してい ます。 「その後、イエスは宮の中で彼(イエスに癒して頂いた、ベテスダの池のほとりで寝ていた38年 病気であった人)を見つけて言われた。『見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりま せん。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。』」(ヨハネ5:14) イエスのこの人に対する勧めのことばは、その人が罪のために病気になったことを暗示してい ます。 "汚れ(人間が持っている罪の性質)の型としてのらい病の取り扱い" −−− これはあくまでも「型」すなわち「象徴」としているだけであって、罪と罪の性質からの 救いが求められる内容であることを理解する必要があります。馬や豚が汚れた動物とされてい ますが、現在私たちはそのようなことは全く気にしていないのと同様です。−−− 旧約では、心の汚れの型としてらい病を取り扱っています。しかし、通常の病気は「きよい」と いい、罪・汚れとは無関係のものとして扱われています。 「その者はらい病人であって汚れている。祭司は彼を確かに汚れていると宣言する。その患部 が頭にあるからである。患部のあるらい病人は、自分の衣服を引き裂き、その髪の毛を乱し、 その口ひげをおおって、『汚れている、汚れている。』と叫ばなければならない。その患部が彼 にある間中、彼は汚れている。彼は汚れているので、ひとりで住み、その住まいは宿営の外で なければならない。」(レビ記13:44〜46) 「祭司は七日目に再び彼を調べる。もし患部が薄れ、患部が皮膚に広がっていないなら、祭司 は彼をきよいと宣言する。それはかさぶたにすぎない。彼は自分の衣服を洗う。彼はきよい。」 (レビ記13:6) 新約の視点では、旧約に出てくる生き物(動物、鳥、虫、魚、海や湖や川の生物などの特定 のもの)や死体、生理現象で体から漏出するもの、出産、病気など「汚れの型」は、旧約から新 約に変わった時点でその役目を終わり、これらは全てきよいと宣言されました。 "イエスは病気になられたことがあるか?" イエスは病気に罹られなかったと主張する人々もいます。確かに聖書のイエスの地上生涯の 記録にはイエスが病気に罹られたという記述はありませんが、イエスは真の人間であられたの ですから、普通の人のかかる病気を患われたかも知れません。聖書は「彼は・・、悲しみの人 で病を知っていた。」(イザヤ53:3)、「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではあ りません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたの です。」(ヘブル4:15)と述べています。上記のみことばから普通の人と同じように病気になり、ヨ セフとマリヤを心配させたかも知れません。この点は、イエスは決して病気には罹られなかっ たと主張するよりも、"不明"としておいた方がよいと思われます。 "イエスが癒す力を持たれたこととご自分の病との関係" イエスが自ら病気になられた事があるのに病気を癒せるのか?との疑問が生じてきます。し かしそれは、ペテロやパウロが病気を癒す賜物を与えられたのと同じです。イエスも真の人間 となられたのですから、人間にできることすなわち聖霊に満たされ、聖霊の力によってこれを行 われたのです。 以上聖書をすなおに読んでみるなら、「すべての病気は罪である、もしくは罪の結果や罪に 対する審判・刈り取りである」という見方は決してしないでしょう。 <サタン、悪霊たちと病気の関係> "ヨブの例から" 「ある日、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンも来てその中にいた。主はサタンに仰 せられた。『おまえはどこから来たのか。』サタンは主に答えて言った。『地を行き巡り、そこを 歩き回って来ました。』主はサタンに仰せられた。『おまえはわたしのしもべヨブに心を留めた か。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないの だが。』・・ 主はサタンに仰せられた。『では、彼をおまえの手に任せる。ただ彼のいのちには触れるな。』 サタンは主の前から出て行き、ヨブの足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で彼を打った。」 (ヨブ記 1:6〜8、2:6〜7) ヨブの例は、サタンや悪霊たちは神の許容される範囲で人間に病気をもたらすことができる ことを示しています。全世界(物質の世界)はサタンに任されているのです。けれども神の許し がなければ「髪の毛一筋も失われることはありません。」(ルカ21:18)と書かれているとうりです。 確かにヨブの病気はサタンによるものでしたが、神は彼を義しい人であると認めていました。 これは正しい人であっても病気になることがあることを示しています。ですから病気になった人 を不信仰な人と考えてはなりません。 "腰を伸ばすことができなかった女の例" 「イエスは安息日に、ある会堂で教えておられた。すると、そこに十八年も病の霊につかれ、腰 が曲がって、全然伸ばすことのできない女がいた。イエスは、その女を見て、呼び寄せ、『あな たの病気はいやされました。』と言って、手を置かれると、女はたちどころに腰が伸びて、神を あがめた。すると、それを見た会堂管理者は、イエスが安息日にいやされたのを憤って、群衆 に言った。『働いてよい日は六日です。その間に来て直してもらうがよい。安息日には、いけな いのです。』しかし、主は彼に答えて言われた。『偽善者たち。あなたがたは、安息日に、牛や ろばを小屋からほどき、水を飲ませに連れて行くではありませんか。この女はアブラハムの娘 なのです。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日だからといってこの束縛を 解いてやってはいけないのですか。』」(ルカ13:10〜16) この人の例は、サタンが人間を病気をもって束縛することがあることを示しています。ただ し、その逆、つまり病気はすべてサタンが人間を束縛しているのだという考えは、正しくありま せん。 先月号に述べましたが、サタンや悪霊たちが直接このように働いたり、悪霊憑きとして人に ついたりした例はサウル王とイエスの宣教のとき以外はほとんど記されていません。 "サタンや悪霊たちと病気の関係に関する正当な見解" 一般的には病気はサタンや悪霊たちによるのではなく、神が許容されている自然現象と同じ 内容のことと理解すべきです。病気の原因には病原菌(広くは病原体)によるものもあれば生 活習慣からくるものもありますし体質や遺伝によるものもあります。食物が不足したり偏ったり すれば栄養が不足して病気になりますし、食べ過ぎれば太って病気になります。原因が思い当 たらない病気になることもあります。親から受け継いだ体質に外的要因が重なって病気になる ケースが多いでしょう。病気に対して通常は自然科学の領域である、医学、薬学、生理学、栄 養学、体育学、心理学などなどの知識、技術が当てはまります。ですから病気をサタンや悪霊 たちの働きと直接結びつけて考えない方がよいと思われます。 一方病気は教会の働きを妨げるサタンの手段にもなり得ます。実際に当面する病気につい てそれぞれ個別に判断してゆかなければなりません。 大切なことは病気の原因が何であってもそれから目をそむけないことです。さもないと適切に 対処することができません。 今月の質問 1.自然科学と信仰は両立するでしょうか。 今回もまた、まずご自分で回答を考えてみて下さい。 |