「同労者」第28号(2002年1月)                         目次に戻る 

旅行記

― 聖地旅行見聞記 (10) ―

森聖泉キリスト教会  牧師 秋山 光雄

聖地旅行日程    1986年11月14日〜11月25日 (13日間)
日/曜日 出発地−到着地 主な訪問・見学地
20/木 ソドム・ガリラヤ(キブツハウス) 死海、クムラン、エリコ、ガリラヤ湖、
カペナウム、八福教会


11月20日(
早朝5時半、まだ明け切れぬ死海に早くも仲間たちが押し掛け海に入る。 海は上30センチ
位は冷たいがその下は温泉のような温かさである。何でも昼の太陽で海水が温まっているらし
い。とにかくちょっと指をつけて海水をなめてびっくり。塩辛いどころか苦いのである。海に入り
腰あたりまでになると"ふわー"と浮いてくる。もう少し進むと完全に足が浮き横倒しになってし
まう。足の方が軽いからだ。メガネをしたままなので海水につけないように注意するのだが体
の自由が効かない。まるで宇宙遊泳しているようだ。何もしていないのに完全に浮いてしまう。
子供の頃、傘をさして死海で寝て本を読んでいる写真を見た記憶があるが、今まさにそれであ
る。立ち泳ぎする者、足と頭を水面に上げて寝る者、その中7〜8人で手をつなぎ足を真ん中
に集めて海中人形菊を作ったりして下川師のビデオに収まったりした。

死海の海水浴


ホテル裏の死海

 やがて婦人たちも加わると騒ぎは一段と大きくなった。大笑いは小島夫人の大きな体がふわ
ふわ浮かんでキャーキャー言いながら放つ"こわい、こわい"の大はしゃぎ。宮内師が助けよう
と抱きかかえ、それをまた下川師のビデオが捉えようとすると「先生止めて!誤解されちゃ
う!」。これには海の人も陸で見物の人も大爆笑。短い時間だったが死海を味わい大急ぎでホ
テルに戻り出発準備。

東側よりマサダを望む

 8時5分ホテル出発。左にマサダ、右に死海をみて北上。エンゲデで給油、その近くで遊牧民
がどのようにして昼の休息をしたかの実演を河谷氏と後藤師がやって見せてくれた。傘アカシ
ヤの木の下に寝そべってポーズをとる後藤師に向かって河谷氏曰く「彼らはすこしやつれ、く
ずれた恰好で寝そべるのですが後藤師は丁度よい役者です」とやったので大笑い。正に髭面
の後藤師は最適の遊牧民演技者だった訳である。エンゲデはダビデがサウロを逃れて隠れた
野の一つ(サムエル記T 24章)。この辺はまたダビデの詩にある谷間の鹿が多く出没する所だ
という。正しく時折崖の上に鹿がじっとこちらを見ている光景に出会う。もちろん野生の鹿(雅歌
1:14)で政府の保護政策で最近は数も増えてきているとか。この近くにはまたダビデの滝もある
という。死海も北上すると何となく海に似て打ち寄せる波が目立つ。これは死海南端のソドムで


エンゲデ  給油所


クムラン遺跡


クムランからの風景 (死海の北端)


死海写本がみつかったクムラン洞窟

は見なかった現象である。干潟に近いへその半島の部では人工の灌漑用水路が設けられ死
海の水を北から南は送っている。工業用水、その他で死海の水位も年々低くなっていくらしい。
崖にそそり立つ巨大な岩塊や大小さまざまな石も地震が少ないため落石の危険はまずないと
の事だ。
 やがてクムランに到着。城跡、住居跡また洞窟を見る。クムラン派の住居跡で祈りに写本作
業に明け暮れた遺跡でもあると言う。第四洞窟からベドウィンの子供によって発見された数々
の写本の中で最も有名なものはイザヤ書のもので現在はエルサレム博物館にあるという。今
まで発見されず、また腐食しなかったのは人の到底近づけないと思われた崖の洞窟であった
事と天然の乾燥器洞窟のお蔭であったとされていると言う。ヨルダン川、死海、そしてエイラット
と続く大断層は世界最大級のもので北はヘルモンからトルコ領に、南は死海から海を越えてア
フリカに及ぶねじれ断層とのことだ。東と西では約100キロメートルの地質差があるという。エ
リコの崩壊もソドムの埋没も自然現象のなせる業としても頷ける事だと河谷氏は言う。彼はク
リスチャンである我々を意識してか折々"聖書を補強する意味で"とか"聖書の記事を否定する
訳ではないが"とかの言葉が出てくる。アラブ人やベドウィンの家の屋根は"なつめやし"の葉で
覆われており4人の人に担われた中風の病人が屋根を剥がして吊り下ろされた記事もこんな
形の屋根を見れば頷けると言うものだ。

簡単な構造の家(屋根はナツメヤシの葉)


(この日の記 つづく)



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