「同労者」第29号(2002年2月)                          目次に戻る

聖書講義

 − 昨日のサムエル記 (その19)  −
仙台聖泉キリスト教会  牧師 山本 嘉納



 新しい年になったが引き続き書かせていただく。サムエル記を祈りながら見つめ直し、聖言
からの力をいただきたく思う。中心はイスラエルで始められた王国の歴史である。初代はサウ
ルで次がダビデ。両者とも特別な賜物を有していたことは事実であるが摂理によって導かれた
現場で精一杯生きた、私たちと同じ人間である。彼らの時代は戦争と動乱の時であった。神を
信じる人間がそれらの困難に立ち向かう姿は私たちに多くの励ましと慰め、それに限りない神
の知恵と真理を示すものである。サムエル記Tはサウル王がその中心であり、彼の失敗と
罪、それらによる滅びが記されている。もう一人のダビデについてはサムエル記Tにも出てき
てはいるが王となってからの諸事はUの方に記されている。彼も例外ではなくサウルと同じよう
に失敗もし罪も犯した。しかし、ダビデは滅びることなく彼の末が代々王家を継いだのであっ
た。こうしてみると聖書はあたかもこの二人の王を比較するように記しながらその分かれ目、
違いを探り見極めることを私たちに促しているように感じる。それが出来ればたとえ細かいこと
はわからなくても聖言の示す真理をつかみ信仰生活の豊かな糧とできる。昨年のサマーキャ
ンプの時に私はサウル王の子、ヨナタンを取り上げ彼の信仰とその実践の見事さ、潔さをお話
した。すでに彼の父親でありイスラエルの王であったサウルが、罪のゆえに神に見捨てられ狂
気に走りながら、いよいよその最後を迎えようとしている時でさえ息子ヨナタンの豊かな信仰は
生き生きと働いていた。同じ資質を持っていたであろうサウルが信仰をまっとう出来なかった原
因を彼の「王位」と結論付け、いかに最高権力者の地位が人を狂わせるものであり、サウルの
滅びの元凶であったかを話した。ある兄弟が自らの証として、営んでいる会社の真の社長は
自らではなく神、ご自身でありどこまでもその配下に生きることを志していることを告白してい
た。彼の立場とその責任、そして実際の困難と戦いを知ることはできないが、それらが聖言と
その真理に結びついていることを不思議な重みと共に感じた。
ダビデの失敗と罪を取り上げなければならない。聖書を多少知っているものは直感的に彼の
姦淫の罪を思う。しかし、これを学ぶためには順番をきちんと守って進めていかなければなら
ない。そしてそこまで至った経緯の中に人の弱さと罪深さを見る。歴史に「もし」は厳禁だか、
私たちのこれからにはそれは大変重要である。第一に取り上げることは、ダビデの使命であ
る。彼は戦争をしなければならなかった。ご存知の通り個人が唯一の生命をかけて戦いうので
ある。第二次大戦時、アメリカは傍観者でいることができたが同盟国の危機に参戦を決めた。
そして戦いに人々を送り母国と同盟国のために命をささげる事を強いた。大儀は「われわれの
尊い自由を独裁者の邪悪な手から守る」ことであった。同じようにダビデもイスラエルに徴兵を
行い母国のため、否、イスラエルの神、主のために生命をささげることを強いた。時代はだん
だんと職業軍人が多数を占めるようになってはいたが非常事態にはイスラエル中に戦いへの
参加が義務付けられていた。強いペリシテを退けたことは神のなさった業であるが、ダビデを
中心に民全体が力を尽くしたことも忘れてはいけない。彼らは死の恐怖を克服し信仰にたって
自らの命を神の前に差し出したのである。やむなく失われた生命もさればこそ、御手の中に導
かれ神の賞賛にあずかったこと、民もその死を悲しむと共に大いなる敬意を払ったことが伺え
る。そうしながらダビデはイスラエルを隣国の侵略から守るだけではなく彼らを征服し平和と安
定、豊かさを国民にもたらした。ほぼそれらが完成しようとしている時、神はあたかもダビデを
試すかのようにある事件の発生を許した。
『この後、アモン人の王が死に、その子ハヌンが代わって王となった。ダビデは、「ナハシュの
子ハヌンに真実を尽くそう。彼の父が私に真実を尽くしてくれたように。」と考えた。そこで、ダビ
デは家来を派遣して、彼の父の悔やみを言わせた。ダビデの家来たちがアモン人の地に来た
とき、アモン人のつかさたちは、彼らの主君ハヌンに言った。「ダビデがあなたのもとに悔やみ
の使者をよこしたからといって、彼が父君を敬っているとでもお考えですか。この町を調べ、探
り、くつがえすために、ダビデはあなたのところに家来をよこしたのではありませんか。」』サム
エル記U 10章1−3 誰も好き好んで戦争はしない。特に神を信ずる者は平和を求めなけれ
ばならない。当然の意見である。しかし、ダビデの和平工作が裏目に出た。私たちの現実の生
活にもこの「裏目」がある。そしてそれは思わぬ困難に私たちを導く。ダビデのここまでの戦い
は、決して楽なものではなかったし召されてなった王としての責任を果たすことも簡単ではなか
った。敵の侵攻に始まり、神に伺いを立て、戦いの備えをし、共に勇敢に戦って勝利を得る。
神が与えたそれを喜び、栄光を主に帰した。戦利品、領土は増え、ダビデに対する神の臨在と
祝福は民に一層明白になっていった。そんな時の思いに反したアモンのそしりに対して、ダビ
デは困惑しながら打つべき手を打たなければならなかった。実はこのアモン人の王に対するダ
ビデの真実の前にヨナタンの子メフィボシェテに対する真実があった。親友ヨナタンが生前ダビ
デのためにその命にかけて彼を守ろうとした真実に対してヨナタンと契約が結ばれていた。ダ
ビデはメフィボシェテに対する真実をもって自らが名実共にイスラエルの王でありそれがサウ
ル王家には果たせなかった事業であったことを強調している。サウルの時に問題とした「王位」
という曲者が少しずつ顔を出し始めている。もし、アモンの問題(10章)が無ければ親友との契
約を真実に果たしているダビデの姿が理解される。しかし、そのすぐ後に同じような形でアモン
の王への真実をもってくるところに神認識の甘さが感じられる。命がけでイスラエルの神、主に
しがみついたヨナタンの信仰と真実を異教の王のそれと混同しようとしたダビデの価値判断は
あまりにもその真実の中心にいる神を蔑ろにした決定と言わざるを得ない。外国と仲良くやれ
ばよい、仲良くするために妥協してもよい、といった甘い考えがここまで神と民の前に真剣に歩
んできたダビデの中に少しずつ芽生え始めている。11章にダビデの罪が記されている。アモ
ンとの戦いに出ないで王宮で昼寝をしている姿である。「裏目」からどうしても開放されないダビ
デは戦いに出られずうずうずと自らを浪費している。どうしたらこの流れを止められるのだろう
か。どうしたらもう一度、へりくだって神の配下に自らをおくことができるのだろうか。大いなる
試練に挑むダビデであった。



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