「同労者」第30号(2002年3月)
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「さて、祭りのとき礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシヤ人が幾人かいた。この人た
ちがガリラヤのベツサイダの人であるピリポのところに来て、『先生。イエスにお目にかかりた いのですが。』と言って頼んだ。ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポとは行って、イ エスに話した。すると、イエスは彼らに答えて言われた。『人の子が栄光を受けるその時が来ま した。まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、 それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者 はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。わ たしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕 える者もいるべきです。…』」 (マルコ10:32) 今年の教会の暦では3月24日から受難週、28日に最後の晩餐、29日に十字架、31日に 復活節(イースター)となっています。 クリスマスが主のご降誕について学ぶよい時であるのと同様に、この時期には十字架と復活 の意義を学びたいものです。 イエスは過越の祭り(木曜日に始まる)の六日前、十字架に架かられる前の週の金曜日にベ タニヤに来られマリヤとマルタの家に泊まられました(ヨハネ12:1)。安息日、土曜日は休まれまし たが、恐らくこの日、らい病人シモンの家での晩餐の際にマリヤが主にナルドの香油を注いだ 出来事がありました(マルコ14:3、ヨハネ12:12)。 その翌日はイエスがロバの子に乗ってエルサレムに行かれ、人々がイエスの通る道にシュロ の葉枝や上着を敷いて歓呼をもって迎えた日であってシュロの聖日と呼ばれていますが、ギリ シャ人たちがイエスにお会いしたいとピリポに頼んだのは恐らくこの日の出来事であったもの 思われます(ヨハネ12:20)。 イエスは自分の話を聞きたいというギリシャ人たちに、どんなにか教えて上げたいと思われた ことでしょう。けれども彼にはどうしても成し遂げなければならないことがありました。それは自 分が死んで贖いをしなければならないということでした。 たとえ神・人であられるイエスすらも「地に落ちて死ななければただ一粒のまま」なのです。 イエスは私たちの救いのためにいのちをも惜しまれませんでした。逆に言えば、私たちが救 われないまま死をを迎えるということは、十字架に架かって死んでも救い出さなければならない 程恐ろしいことであることを意味しています。 私たちが何かに自分を傾けて取り組んでいるとき、一緒に担うはずの人々がいい加減である とそれを敏感に感じるものです。イエスは死を賭して救いの道を拓かれました。それを受けた いと願う私たちも同じように真剣になろうではありませんか。 |