「同労者」第30号(2002年3月)
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最近、キリスト教会中にいやしすなわち「神癒」について騒ぎ立てる人々がいると聞きます。
私達の身近にも体を病む人も心を病む人もおり、いやしの問題はキリストを信じる者にとって 気になることの一つであると思います。私達はこのことについても、聖書に神が示しておられる ことをたずねるべきです。
5.聖霊の賜物(いやし)
5.1 イエスがキリストであることを示す証拠としてのいやし
聖書をよく調べてみると、聖書に記されているいやしの記事は、旧約聖書においてはエリシャ
に関して、新約聖書ではイエスの宣教と初代教会がその宣教の権威がナザレのイエスの名に よるものであることを証明する点に集中していることが分かります。
エリシャはキリストの予表としての型です。彼は死人を生かし、
「エリシャが家に着くと、なんと、その子は死んで、寝台の上に横たわっていた。エリシャは中に
はいり、戸をしめて、ふたりだけになって、主に祈った。それから、寝台の上に上がり、その子 の上に身を伏せ、自分の口を子どもの口の上に、自分の目を子どもの目の上に、自分の両手 を子どもの両手の上に重ねて、子どもの上に身をかがめると、子どものからだが暖かくなって きた。それから彼は降りて、部屋の中をあちら、こちらと歩き回り、また、寝台の上に上がり、 子どもの上に身をかがめると、子どもは七回くしゃみをして目を開いた。彼はゲハジを呼んで、 『あのシュネムの女を呼んで来なさい。』と言いつけた。ゲハジが彼女を呼んだので、彼女はエ リシャのところに来た。そこで、エリシャは、『あなたの子どもを抱き上げなさい。』と言った。彼 女ははいって来て、彼の足もとにひれ伏し、地に伏しておじぎをした。そして、子どもを抱き上 げて出て行った。」(列王記U4:8〜37)
らい病人をきよめ、
「アラムの王の将軍ナアマンは、…勇士ではあったが、らい病にかかっていた。…エリシャの家
の入口に立った。エリシャは、彼に使いをやって、言った。『ヨルダン川へ行って七たびあなた の身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。』…
そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。す
ると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。」(列王記U5:1 〜19)
わずかのパンで多くの人々を食させ、
「ある人がバアル・シャリシャから来て、神の人に初穂のパンである大麦のパン二十個と、一袋
の新穀とを持って来た。神の人は、『この人たちに与えて食べさせなさい。』と命じた。彼の召 使は、『これだけで、どうして百人もの人に分けられましょう。』と言った。しかし、エリシャは言っ た。「この人たちに与えて食べさせなさい。主はこう仰せられる。『彼らは食べて残すだろう。』」 そこで、召使が彼らに配ると、彼らは食べた。主のことばのとおり、それはあり余った。」(列王 記U4:42〜44)
ました。イエスに関する聖書の記事と対比してみると実によく似ていることが分かります。
イエスは死人を生かし、
「それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちと大ぜいの人の群れがいっ
しょに行った。イエスが町の門に近づかれると、やもめとなった母親のひとり息子が、死んでか つぎ出されたところであった。町の人たちが大ぜいその母親につき添っていた。主はその母親 を見てかわいそうに思い、『泣かなくてもよい。』と言われた。そして近寄って棺に手をかけられ ると、かついでいた人たちが立ち止まったので、「青年よ。あなたに言う、起きなさい。」と言わ れた。すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めたので、イエスは彼を母親に返され た。」(ルカ7:11〜15)
らい病人をきよめ、
「イエスが山から降りて来られると、多くの群衆がイエスに従った。すると、ひとりのらい病人が
みもとに来て、ひれ伏して言った。『主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります。』 イエスは手を伸ばして、彼にさわり、『わたしの心だ。きよくなれ。』と言われた。すると、すぐに 彼のらい病はきよめられた。」(マタイ8:1〜3)
わずかのパンで多くの人を食させました。
「イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われ
た。『どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。』もっとも、イエスは、ピリポをた めしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられた からである。ピリポはイエスに答えた。『めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパン では足りません。』弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。『ここに少年 が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、そ れが何になりましょう。』イエスは言われた。『人々をすわらせなさい。』その場所には草が多か った。そこで男たちはすわった。その数はおよそ五千人であった。」(ヨハネ6:1〜13)
キリストに関するイザヤの預言はイエスがキリストであることを人々が悟るように語られたも
のです。
「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰
せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し 通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち 傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かって な道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」(イザヤ53:4〜6)
「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを
伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人に は釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰 め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂い の心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。」 (イザヤ61:1〜3)
イエスについてこれが成就したと記されています。(ルカ7:18〜22、ルカ4:16〜21)
キリストは罪を赦す権威をもっておられることを当時の人々が悟ることができるようにとの意
図で中風の人を癒されました。(マタイ9:1〜8)
使徒たちの行ったいやしもナザレのイエスを示すものとされています。
「彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってま
っすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっ しょに宮にはいって行った。
…このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知ってい
るこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全 なからだにしたのです。」 (使徒3:1〜9)、他に(4:1〜14)など。
<補足>J.ストーカー*1はイエスの奇蹟は、イエスがキリストであることの証拠とみなされな
かったと述べています。これはパリサイ派にそうみなされなかったということです。パリサイ派の 人々は、イエスの奇蹟をサタンもできるものとして拒絶しましたが、イエスはバプテスマのヨハ ネが弟子を派遣して問うた「あなたがキリストですか」という質問にこう答えました。「盲人が見 えるようになり、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返 り、貧しい者に福音が宣べ伝えられています。」(ルカ7:22)つまりイエスご自身は、これらの奇蹟 がご自分がキリストであることの証拠であるとされたのです。
イエスはまたこうも言われました。「さもなければ(わたしのことばがしんじられらないなら)、わ
ざを信じなさい。」(ヨハネ14:11)「わたしが行っているわざそのものが、わたしについて、父がわた しを遣わしたことを証言しているのです。」(ヨハネ5:36)
*1:J.ストーカー、「キリスト伝」、いのちのことば社(1985)p.133(主の奇蹟の解釈について
は、p.80〜87参照。極めて妥当と思われる解釈が述べられています。)
(つづく)
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