「同労者」第31号(2002年4月)                          目次に戻る

聖書講義

 − 昨日のサムエル記 (その20)
仙台聖泉キリスト教会  牧師 山本 嘉納

キリストが公生涯にいつ入ったのかという議論はおいておいて、荒野での断食の後サタンが彼
を誘惑した記録が福音書にある。キリストは神であるが肉体を持っていたので誘惑に陥り、罪
を犯す可能性はあった。ゆえにサタンはそのチャンスをうかがいながら常にキリストの福音と
人類の贖いが失敗するように働いていた。見事に誘惑を退けたキリストであるが、サタンの挑
戦はキリストの贖いのすべてが完了するまで続いたことは間違いない。しかし、キリストが十字
架でその尊い血潮を流され信じる者の贖いを成就した以上、勝敗はすでに決し誘惑者の敗北
が明らかになっている。常に脅かされる信仰であり誘惑に陥りやすい私達であるがへりくだり、
悔いて寄り縋る者に贖いと哀れみは豊かである。ダビデの罪を取り上げる時、そこにあるのは
人の罪深さ、その性質が全く聖められなければならない事実が示されている。そしてそれらを
通してもう一度、神は私達がその関係をより豊かにすることを望んでおられる。
思い込みや憶測をできるだけ避けるためにきちんと書かれている聖言を読んでみよう。「ある
夕暮れ時、ダビデは床から起き上がり、王宮の屋上を歩いていると、ひとりの女が、からだを
洗っているのが屋上から見えた。その女は非常に美しかった。ダビデは人をやって、その女に
ついて調べたところ、『あれはヘテ人ウリヤの妻で、エリアムの娘バテ・シェバではありません
か。』との報告を受けた。ダビデは使いの者をやって、その女を召し入れた。女が彼のところに
来たので、彼はその女と寝た。」(サムエル記U 11:2〜4)
ダビデはイスラエルの王であった。ゆえに彼が求めるものは彼の物となる。美しい女性を見つ
け召抱えることは専制君主が自らの権勢を明らかにするひとつの方法である。他にいくらでも
その手段はありそうだが、命を懸けてその責任のために働いている自らに対してこの位の事
は許してもらわなくてはやってられない。だれでもが持つ普通の要求であり、その立場と責任に
対してなされる報酬は、今の資本主義という競争原理を支える考えである。平和な時代、法と
秩序のもと国を治めるのであれば、その長である王が不法をなせば国は立ち行かない。しか
し、ダビデの場合は戦時下であり、前王サウルがやり残した事業を受け継いで戦っていた。い
つ失われるか分からない自らの命であり、全身全霊を注いで果たされた責任者としての役割
である。そんな過酷な働きが一段楽したある日の夕暮れ時、気持ちの良い昼寝から目覚め少
しずつ自分の働きの先が見えかかってきた時である。このタイミングで美しい女性が目に飛び
込んできた。その美しさは普通ではなく「非常に美しい」と書かれている。調べさせたところウリ
ヤの妻でバテ・シェバというものであった。一線を越えるとよく言うが、ダビデがそれをした。い
とも簡単に彼はそれをした。もし、ちゅうちょ躊躇があったなら聖書はそれを記したことであろ
う。しかし、彼はあたかも空腹時に目の前にあった美味しそうな食物に無意識に手を出すよう
に、それが例え自分の物ではなく隣人のものであったとしても。誘惑に陥らないようにするには
どうしたらよいのであろう。
聖書の別なところにはもう一つの一面が示されているように思う。――ダビデはソロモンに言っ
た。「わが子よ。私は、わが神、主の御名のために宮を建てようとする志を持ち続けてきた。あ
る時、私に次のような主のことばがあった。『あなたは多くの血を流し、大きな戦いをしてきた。
あなたはわたしの名のために家を建ててはならない。あなたは、わたしの前に多くの血を地に
流してきたからである。』」(歴代誌T22:6〜7)――この記録はエルサレムの神殿がダビデによ
ってではなくソロモンによって建てられたのは神の御旨であったこと、ダビデがいかに戦いの人
であったかということが記されている。そしてもう一つは、この御旨はダビデにとってどうするこ
とも出来ない一面を持っているたということである。彼は幼くしてサムエルより油注がれイスラ
エルの王になることが告げられた。最初の働きは敵の大男ゴリアテにおびえるイスラエルの救
出であった。彼の手に握られたゴリアテの大きな剣は持ち主の血で赤く染まった。それからの
ダビデは戦いの日々に明け暮れ、好むと好まざるとに関わらずその手は赤く血に染まった。い
つたどり着くか分からない目的に向かって神を信じて走り抜いたのであった。気がつくと彼はそ
こにたどり着きすでに周りの諸国に対しての覇権も達成されようとしていた。そして先ほどの話
の続きである。ダビデはここまで多くのものを犠牲にしてイスラエルのために戦って来た。彼の
青春は戦いと逃避の日々だった。親友ヨナタンも自ら王になるために捧げた。召抱えた妻たち
も出来上がっているそれぞれの家庭も自らがその王としての責任を果たすために形作ったも
のである。王という職務は孤独であり、たとえ側近でも警戒しなければならない。加えて戦時下
では多くの同胞の命が自らの指示で失われていく。祖国のため、イスラエルの神、主のためと
は言ってもその重圧は計り知れない。勝利が約束された戦いだけではなく時に多くの者の制止
を押し切って兵を進めることもあったであろう。声高に命の責任を訴えるものはいなかったかも
しれないが、それが又彼にとっては愛する民への思いを募らせたことであろう。しかし、放棄す
るわけにはいかない戦いを最後まで先頭に立って続けたダビデである。すでに良い年になって
いたダビデであるが失われた青春の日々が非常に美しい女性と共に彼の面前に顔を出した
のである。愚かしさの中で蒔いた種を後悔の中で刈り取るのは仕方の無いことである。しか
し、自らのためにではなく神のため、イスラエルのために失われた過去を取り戻したいというダ
ビデの思いに同情してはいけないだろうか。預言者ナタンがダビデの罪をたとえ話によって断
罪した記録がサムエル記Uの12章に記されている。ナタンはダビデに言った。「あなたがその
男です。」それを聞くまで彼は、その話が自分のことであると気がつかない。罪は人を盲目にす
るというが、それだけではない。彼の周りの多くの者が彼に同情した。それは彼の働きに対し
て当然支払われるべきものであるかのように一連のバテ・シェバ事件はダビデ以外の多くの
人々の手を借りて行われた。彼女本人もそう考えたのかもしれない。しかし、それは罪なので
ある。同情はダビデの罪を助長し増し加えた。ダビデに必要だった者は、同情する者ではなく
彼に対して真理を語り尚一層の努力と精進を迫る者だったのである。声高に自らの働きと労を
主張し当然払われなければならない報いを求めるのは止めよう。神は私達の求めに、否、神
のために献げた全てを聖めて神の栄光をあらわす者にして下さる。必要と願いを全てご存知
の方がふさわしい時にそれを与えてくださる。バテ・シェバの夫、ウリヤは妻を差し出すのを拒
んだのではない。彼はダビデに罪を犯させるのを拒んで自ら持っていた当然の権利を放棄し
それを伝えようとしたのである。彼の死はダビデへの忠誠、そして愛の何ものでもなかった。そ
れしか本当に人を導き、罪から人を助け救うことは出来ない。

「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えない
で、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人と
しての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われた
のです。」(ピリピ 2:6〜8)


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