「同労者」第31号(2002年4月)                      目次に戻る 

Q&Aルーム

 信仰生活のこと、教理上の疑問など様々なことについて、誰かに聞いてみたいことがおきてく
ると思います。教会の先生に伺うことは勿論一番ですが、それを独り占めしないで、すこし公開
してください。それを皆で考えると、きっと皆さんにとって益になると思います。
質問の送付先は巻末にあります。



 先月号の「進化論」をどう考えたらよいかという質問の回答例の中で、地球の年代推定値が
仮に3ケタが違ったとした場合の数値として7000万年とありますが、まる一つ違って700万年
です。(先月号p.3下から5行目)
 少し補足しますが、私たちの信仰に影響をおよぼす思想はいくつもあります。それらの主なも
のに先月取り上げた「進化論」があり、他に「相対論」「唯物論」などがあります。たいていの
人々は相対論とか唯物論などの内容は知らないでいて、この「ことば」だけが一人歩きしてい
ます。
 「相対」には自然科学の領域のことと哲学の領域のことが含まれています。自然科学につい
てはアインシュタイン(1879−1955:ドイツ生まれのユダヤ人でアメリカに帰化、理論物理学者)
の「相対性原理」、哲学ではカント(1724-1804:ドイツ人、哲学者)の「純粋理性批判」がよく知ら
れています。相対の発想は、"列車に乗っている人が駅のプラットホームに立っている人を見
れば、自分は停止していてホームの人が列車の速度で動いているように見える。ホームの人
が列車に乗っている人を見れば、列車の速度でその人が動いているように見える。これは相
対的なことがらであってどちらも「真」である。"とするのです。カントの思想は人間が「知る」とい
うことについてこの相対的運動と同様の発想をするのだそうです。例えば"本人がある情報を
知らなければ、その人にとってその内容は「ない」ということであってそれを「真」とする。その内
容を知っている人にはそれが「ある」ということが「真」であるとする"といった類です。理論物理
学や力学についてはあまり問題にならないでしょうが、この「物事はすべて相対的なもの」とい
う思想が、絶対者の存在の否定、権威の否定につながっていきます。つまり、「神を知らない
人には神はいないということが真である」というように展開されます。人が知らなくても神はおら
れるのです。ある人が知らないけれどもそれが存在する事実は、あらためて考えなくてもいくら
でもあるのに大哲学者といわれる人物が妙なことを考えるものです。
 「唯物」には、私たちを含む世界は物質に過ぎず、精神活動も脳の働きであって人間が死ぬ
とすべてが消失する、という考えが根底にあります。その走りはフランス啓蒙哲学の一派に現
れ、ラメトリー(1709−1751:フランス人)という人の「人間機械論」に代表されます。やがてマル
クス(1818−1883:ドイツ生まれのユダヤ人)、エンゲルス(1820−1895:ドイツ人)らの「弁証法的
唯物論」なるものが登場してきました。生活の基盤である経済活動を重視する思想です。装い
を替えはしましたがやはりこれも根底はすべてが物質の世界であるとしますから、神の世界、
霊の世界を否定し、神、霊の世界を信ずる信仰と対立する思想です。
 「人はパンだけで生きるのではない。」(マタイ4:4)
 「愚か者は心の中で、『神はいない。』と言っている。」(詩篇14:1)



 先月の質問の回答例(作成者:野澤)
 1.私たちがイエス・キリストについて学ばなければならないのはなぜですか?
でした。
今回は川添万壽得という方が、C.E.ジェファーソンの著書「耶蘇の品性」に書いた序文を今
風に書き改めて紹介することをもって回答に代えたいと思います。


 「キリスト教を著しく他の宗教と相違させている特徴点は何処にあるか」
 この質問に対して、「それはイエス・キリストの事実そのものにある」とキリスト者は答える。そ
してその答えは決して的外れではない。
 そもそも宗教の要は、最も的確に、また最も痛切に神を啓示し、「真の礼拝者」を「霊と真とを
もって」「父」を礼拝させることにある。しかもその完全な啓示は、たゞ「父のふところにおられる
独り子の神」によってのみなされる。そしてナザレのイエスに受肉されたその独り子の神は、こ
のようにおっしゃるのである。「わたしを見た者は、父を見たのです」、と。かつ「わたしを通して
でなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」とも言われた。改めて考えてみれ
ばこのイエスの事実こそは、神の啓示として確かに他に類を見ないものであって、私たちが多
くの宗教の中で特にキリスト教を信じなければならないとする根本の理由が、正にここにある
のである。
 昔イエスを裁判して彼に何の罪があることをも認めなかった総督ピラトは、兵士たちが作った
イバラの冠をかむり、紫色の衣を着せられたイエスをユダヤ人の前に引き出し、幾分侮蔑と憐
憫のとの意味を含めてイエスを指さしながら「見よ、この人だ」と言った。
 そう、「見よ、この人だ」!!。キリスト教は実に「この人」の事実に外ならない。そのとおり、
キリスト教はたゞイエス・キリストの事実である。キリスト教の何たるかを知りたいと願う人は必
ず先ず「この人」の事実を知らなければならない。この人の受肉(インカーネーション)もその事
実である。奇蹟もその事実である。品性もその事実である。人格もその事実である。生活もそ
の事実である。十字架も、復活も、昇天もまた驚くべきその事実である。私たちがキリストを理
解してその真理を把握し、その救いの力を経験しようとするには、この事実の全体を見なけれ
ばならない。然し、私たちは何よりも先ずキリストその人の人物を見ることを肝要とする。人物
は即ち品性である。キリストの品性は人をキリスト教真理の至聖所に導き入れる門であるとい
っても差し支えない。
 新約聖書の福音書は、私たちにキリストの品性を示す幾多の資料を提供している、然し、そ
れはすこぶる雑然とした資料の放置に類するものであるから、そのままでは一般の人にキリス
トの品性の諸要素についてその特質を解らせるには困難である。だから私たちは最も深く聖
書に通じ、キリストの事実を充分に熟知している人がその大きな信仰と洞察とを用いて新約聖
書の資料を整理し、整え直して「恵みと真理とに満」ちたたゞ一人の人格(イエス)が具現したそ
の品性の諸相を整然と提示してくれるのを待たなければならない。
・・
 著者も述べている通り、キリストは現代において新しい栄光をもって世界中に示されている。
私たちは現代の世相に直面しながら、世の人々にその目をこのキリストに向けさせるために、
ピラトとは全く異なった動機から声高らかに「見よ、この人だ」と叫びたい。また当初の弟子たち
がその親しい人々に呼びかけたように、私たちの同胞に向かって呼びかけ「来て、そして、見
なさい」と言い続けようとしている。そしてその先ず見るべきものはイエスの品性でなくて何であ
ろう。イエスの品性を知らなければ、その受肉の意義も、十字架の意義も、正しく理解すること
はできない。考えてみると、日本のキリスト者はキリスト教の教義や神学を理解すると同時に、
今少し切実にイエスの品性を認識すべき必要を自覚しないのだろうか。ただキリスト者だけで
なく、求道者もその必要を知らなければならない。信者でない人々もその必要を知らなければ
ならない。キリスト教に反対する人々もその必要を知らならければならない。
・・(「耶蘇の品性」C.E.ジェファーソン著、村上潤次郎訳、新生堂、(1932)、p.1−p.4から)

 イエスの品性を取り上げた著書の序文ですから、品性について強調されていますが、私たち
が何故イエス・キリストについて学ばなければならないか、その理由が十分に示されていると思
います。
 ですから私たちはこの誌面を通じて、一緒に学ぼうではありませんか。


今月の質問
1.イエス・キリストについて彼のどういうことについて学ぶべきでしょうか?
今回もまた、まずご自分で回答を考えてみて下さい。


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