「同労者」第31号(2002年4月)                         目次に戻る 

聖書研究

仙台聖泉キリスト教会 聖書研究会 1994.8.30 から
聖霊について(第13回)
―― 聖霊の賜物(2) ――


仙台聖泉キリスト教会   野澤 睦雄


 最近、キリスト教会中にいやしすなわち「神癒」について騒ぎ立てる人々がいると聞きます。
私達の身近にも体を病む人も心を病む人もおり、いやしの問題はキリストを信じる者にとって
気になることの一つであると思います。私達はこのことについても、聖書に神が示しておられる
ことをたずねるべきです。

 5.2 罪と病気の関係
 シロアムの池で目を洗うことによって目を開けていただいた盲人について
「…イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。…』」(ヨハネ9:1
〜3)
とあるように、イエス・キリストは、すべての病気が罪の直接的結果であるという考えを否定さ
れました。
 もちろん、ベテスダの池の側にいた38年病気であった人に、
「もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪いことが怒るから。」(ヨハネ5:1〜14)
と言われたように、罪の結果病気になることがありますし、そのような警告もあります。
「みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになりま
す。そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり…」(コリントT11:27〜30)
 ヨブは神が義しいと認める人でした。
「ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかってい
た。」(ヨブ1:1)
「主はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で
正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」(ヨブ1:8)
にもかかわらず、彼の友人たちは以下の四つの聖書の引用に示されているように、彼が罪を
犯したからこのような災いに遭っているのだと決めてかかりました。
「さあ(ヨブよ)思い出せ。だれか罪がないのに滅びた者があるか。どこに正しい人で絶たれた
者があるか。」 (ヨブ4:7)
「パピルスは沼地でなくても育つだろうか。葦は水がなくても伸びるだろうか。これは、まだ若芽
のときには刈られないのに、ほかの草に先立って枯れる。すべて神を忘れる者の道はこのよう
だ。神を敬わない者の望みは消えうせる。」(ヨブ8:11〜13)
「ところが(ヨブよ)、あなたは信仰を捨て、神に祈ることをやめている。それは、あなたの罪が
あなたの口に教え、あなたが悪賢い人の舌を選び取るからだ。」(ヨブ15:4〜6)
「(ヨブよ)あなたとともに、さばきの座に、(神が)はいって行かれ、あなたを責められるのは、
あなたが神を恐れているためか。いや、それはあなたの悪が大きくて、あなたの不義が果てし
ないからではないか。あなたは理由もないのにあなたの兄弟から質を取り、裸の者から着物を
はぎ取り、疲れている者に水も飲ませず、飢えている者に食物を拒んだからだ。」(ヨブ22:4〜5)
 ここで言えることは、私達の間で病む人がいても、その人が罪を犯したためだなどと考えては
いけないということです。さもないとヨブの友人達がヨブが罪を犯したに違いないと思ったような
誤りを犯すことになります。

 5.3 教会時代の人々に対する神のお働き
 今は聖霊の時代であって、いやしは「聖霊の賜物」として神の民に残されています。
「さて、御霊の賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。奉仕にはいろい
ろの種類がありますが、主は同じ主です。働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべて
の人の中ですべての働きをなさる同じ神です。しかし、みなの益となるために、おのおのに御
霊の現われが与えられているのです。ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほ
かの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、またある人には同じ御霊による信仰
が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、ある人には奇蹟を行
なう力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解
き明かす力が与えられています。しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであっ
て、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。…あなたがた
はキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。そして、神は教会の中で人々を
次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を
行なう者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。み
なが使徒でしょうか。みなが預言者でしょうか。みなが教師でしょうか。みなが奇蹟を行なう者
でしょうか。 みながいやしの賜物を持っているでしょうか。みなが異言を語るでしょうか。みなが
解き明かしをするでしょうか。あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私
は、さらにまさる道を示してあげましょう。」(コリントT12:4〜11、27〜31)
「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいます
か。その人は賛美しなさい。あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老
たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、
病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯してい
たなら、その罪は赦されます。ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのため
に祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。エリヤは、私た
ちと同じような人でしたが、雨が降らないように祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りません
でした。そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。」(ヤコブ5:13〜18)
「賜物」というのは、全ての人に与えられるものではなく、まして天国に入るための必要条件で
はありません。私達は実際に病みつつ輝いて天に帰った人々を知っています。
 使徒ヨハネはガイオという人が健康であるようにと祈りました。
「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康
であるように祈ります。」(ヨハネV2)。
 聖書に記されているこの種の祈りは、当時の人々のためであると同時に今の私達のためで
あることは明かです。これは神は特別な理由がなければ私達が健康に生きることを喜んでくだ
さることを示すものです。実際問題として、経済や他の様々なことに関し、私達の前に課題が
与えられるのと同様に私達が病むことを神は許容されるのです。(つづく)


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