「同労者」第32号(2002年5月)                          目次に戻る

証詞

 − 待っていて下さった神  −

仙台聖泉キリスト教会  石井 さち子


 私はクリスチャンホームに生まれ育ちました。小さい時から他の家庭とは違う環境なんだとい
うことをなんとなく感じながら育ってきましたが、その"何となく"が私の中でマイナス面として決
定的に大きなものになったのは、ミッションスクールに通うようになってからでした。
 友だちが学校の先生を見て「あの先生はクリスチャンなのに」と否定的な表現をする姿を見
て、私はどうしてクリスチャンホームに生まれてしまったのだろうと思い、学生のうちは絶対に
洗礼は受けないと思っていました。
 しかしそうやってがんばっていた私ではありましたが、いつも何か自分でもよく分からない不
安がありました。その不安がだんだん大きくなり、自分ではどうしょうもなくなって神様のところ
に行き罪の告白をして救いに与りました。
 救いをいただいて安心感を得たものの、全てを神様にお渡ししていなかったため、強い自我
というものを長い間持ち続けながら過ごしていました。そのため神様を信じていますとはいうも
のの、本当の感謝も恵みも何もわからないものでした。
 そんな頑とした私でしたが神様は親しくしていた友人の姿を通して人間には表と裏があり、表
ばかり見せられて信じていると急に裏を出してき、簡単に裏切ってしまう、という人間のみにくさ
を見せられて、真実は神様にあるということを知らせてくださいました。
 これが私にとって潔めの経験だったのですが、この潔めの経験により、今まで絶対に放した
くないと思っていたものを持ち続けている限り私は神様が喜んでくださる者にはなれないという
ことが分かり、神様に明け渡すことができ、神様の御手の中で生きるすばらしさ、平安、感謝、
恵みを知ることができました。
 「なが心に住まわんと 主はなれを待つ
 ・・ ・・
 いままで主は幾たび なれを忍びしぞ
 いままた主は待ちたもう 心ひらくを」
 この讃美歌267番は私の大好きな讃美です。この讃美歌を歌う度、神様は本当に長い間こ
んな私のことをも離さずに待っていて下さったということを知ることができます。
今私がクリスチャンでなかったらと考えると本当にゾッとします。
 私は自意識過剰で、人の目がとても気になる者です。もし神様を知らなかったら、人の目で
の判断によってどんなに惑わされていただろうと思います。私たちクリスチャンは神様の目で
の判断、神様の御計画の中にある今の時ということを信じることで、今ある所での戦いの力を
いただき、神様と共に戦っていけることに感謝しています。


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