「同労者」第32号(2002年5月)                目次に戻る

巻頭言
− 教 会 の 生 命 線 − 
仙台聖泉キリスト教会   山田 大

 「ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストの
からだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キ
リストのからだとは、教会のことです。」(コロサイ1:24)

 年頭にこの御言葉を掲げさせていただいてこの一年を歩んでおりますが、この御言葉は19
年前に救いの恵みに与るきっかけとなった礼拝説教で語られていた聖句でもあります。キリス
トのからだである教会の荷を担う者になりなさい、という神からの強い働きかけを感じたのでし
た。
 教会の荷を担う、ということを若い時は具体的な働きとして捉えていました。CSの教師をす
る、伝道のいろいろな活動に積極的に参加する、聖書研究会など許されている集会の当務を
する、勿論献げもの、会堂掃除など皆一生懸命にしました。
 牧師の時代には無我夢中で担おうとして来たように思います。もう一度信徒となって、上に述
べたようなことは勿論大切なことですが、さらに何か加えていかなくてはならないとするならば
それは目に見えない部分だろうと思いました。最初に考えたことは本当に目に見えない霊的な
闘い、サタンとの格闘ということでした。自らを聖く保つこと、祈りの器となることといったことを
目標とし、祈祷課題には毎日教会の全員のために祈る、祈りをもって牧師先生を支えるといっ
たことを書いていました。間違いではないのでしょうが、しかしそこは非常に観念的な世界で、
正直に言ってなかなか実感のない闘いでした。
 そのような中でだんだんと神様は私に実際に今いくさがなされている戦場を見せてくださるよ
うになりました。それは教会がどこを生命線にしているかということです。私たちの仙台教会で
言うならば「信仰の継承」というところです。私たちのいのちとするところをサタンは揺さぶろうと
しています。そこに闘いを挑んで来ています。具体的にいうと、「信者の子供たちを教会から引
き離す」ということです。その意味においてどの家庭にも共通の戦場があり、同じ闘いを戦う同
志です。
 あまり具体的に書くことは出来ませんが、ここ数年様々な家庭のお子さん方、特に教会から
離れてしまっていらっしゃる方々や教会に通うことに困難をおぼえておられる方々に不思議な
ように色々な問題を通して関わらせていただきました。当事者の方々にとっては本当に戦場で
ありました。サタンの攻撃は激しく、教会の生命線を揺さぶろうとしているのは明らかでした。ま
さにその「破れのはざま」に立つにはあまりにも力の足りない者であることを思わせられ、しか
し同時に自分一人で担うのではないことも教えられました。教会では先を行く方々がずっとこの
ような闘いを担って来られ、また私と同年代の方々も様々な形で目に見えない部分を信仰の
継承のために担っておられます。その事実は本当に涙が出るほど嬉しいことで、私も頑張らね
ばと励まされます。また一番近くでは妻も共に担おうとしてくれています。サムエル記第二の10
章でヨアブとアブシャイがそれぞれ前方と後方の敵に立ち向かったように、励ましあい支え合う
同信の友たちが与えられていることを心から感謝します。ヨシュア記14章12節に「どうか今、
主があの日に約束されたこの山地を私に与えてください。あの日、あなたが聞いたように、そこ
にはアナク人がおり、城壁のある大きな町々があったのです。主が私とともにいてくだされば、
主が約束されたように、私は彼らを追い払うことができましょう。」とあります。敢えて最強の敵
がいる土地を自らの相続地として求めたカレブの信仰に奮い立たせられます。教会の生命線
は最も闘いの激しいところ、最強の敵のいるところであり、そここそが「キリストの苦しみの欠け
たところ」にほかなりません。そこを我に与えよ、と言い続けられる者でありたく願います。その
ことをもって先生方の良き「同労者」と呼ばれるよう実を結ばせていただきたく願っております。


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