「同労者」第32号(2002年5月)                          目次に戻る 

論  説
 ― 自分のペンテコステ経験をしよう ―

「わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であ
る・・。あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。」(レビ記11:45)

 レビ記には人が神に近づくためにはどうすればよいかが記されています。
先ず第一にしなければならないことは、血による贖いです。(レビ記17:11)
この血は、人間の罪の赦しのため、神との和解のため、神への感謝を示すために用いられま
す。それには、祭司に当てはめること、民の長老・指導者・司として民を治める人々に当ては
めること、一般の民にあてはめることが区分されて規定されています。これは水の洗いと共に
血を注ぐことをもっておこなわれ、バプテスマとイエスの血による贖いを示しています。
第二は穀物と油と香油を祭壇の火を通して捧げるものでした。これは聖霊によるバプテスマ(マ
タイ3:11)を示し、火がその象徴です。(使徒2:1〜3)
契約の箱の贖いのふたの上から神は語られ、主の栄光シェキナの光がありました。そして冒
頭のみことばが語られました。「あなたがたは聖なるものとなりなさい。わたしが聖であるか
ら。」(レビ記11:45他多数) そして着るもの・食べるもの・住む家について、出産・日常の生活・
病気・死(葬儀)・結婚・性・職業などなどについて汚れの規定を定めて聖なるもとと汚れたもの
とを区別し、聖く生きることが教えられています。そしてその中にイエスが最も大切な教えとされ
た、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。」(レビ記19:18)と述べ
られています。 この汚れを示す規定には、繰り返し繰り返し、「わたしはあなたがたの神、主
である。」(レビ記19:25他多数)と述べられています。
 血による贖いは「死」によるものですが、聖とされることは「生きる」ことにあります。ですから
どのように潔く生きるかが問題なのです。聖く生きるためにイスラエルの男子は主を礼拝する
――それは日本語に翻訳するに当たって"祭(まつり)"とされましたが――ために、年3回エル
サレムの神殿にいきました。第一の祭は「過ぎ越し」で犠牲の血による贖いが中心でした。そ
の五十日後に行われる「五旬節(ペンテコステ)」は新しい穀物と油を捧げることが中心でし
た。第一の祭にあわせてイエスの十字架がありました。第二の祭、ペンテコステに聖霊がおい
でになりました。第三の祭「仮庵(かりいお)」は、「火によるささげ物を主にささげる。…きよめ
の集会」(レビ記23:36)で、過ぎ越からはじまるすべてを覚え(記念)させるものでした。
 これらは霊的なものとして私たちも求められていることです。一人も漏れることなく自分のペ
ンテコステを経験させて頂こうではありませんか。神が「あなたがたは聖でありなさい」と言われ
ますから。
 

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