| 
           
          
          「同労者」第32号(2002年5月)
                                  目次に戻る 
           
          
          5.4 神癒を強調する人々の論点について
           
          
          (1) 罪を犯さなければ病気にならないのか?
           
          
          「そして、仰せられた。『もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見
           
          られることを行ない、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジ プトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者であ る。』」(出エジプト15:26) 
           このモーセの律法に書かれているみことばを強調すると、病気になった人は主の声に聞き従
           
          っていないということになってしまいます。しかし、聖書のことばを一カ所だけ取り上げて強調す ることは誤りです。ヨブは病気になりましたが彼の罪のせいではないことは明かです。「主はサ タンに仰せられた。『おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神 を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいない。彼はなお、自分の誠実を堅く保 っている。おまえは、わたしをそそのかして、何の理由もないのに彼を滅ぼそうとしたが。』」(ヨ ブ2:3) 
           この記事は罪を犯さなくても病気になる可能性があることを示しています。
           
          
          (2) 体は聖霊の宮なのだから病気にならないのか?
           
          
          「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないので
           
          すか。もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なる ものだからです。あなたがたがその神殿です。」(コリントT3:16〜17、6:15、19〜20) 
           今の体は朽ちるものとして扱われています。「死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔
           
          かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、 弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだ によみがえらされるのです。」(コリントT 15:35〜58) 朽ちるものなのですから、病気にならないと は保証されていません。 
          (3) 医薬を用いると神が働かれる機会が失われるという論議
           
          
           医者にかかること、一般の医薬品を用いることに反対する人々がいます。彼らは医師に頼る
           
          と神が働き給う機会を失わせることになると主張します。しかし、その根拠となる聖言は示され ていません。ですから 医者も医薬品も、神が与えて下さった癒されるための手段の一つであ ると考える方がよいのです。 
          (4) 油を塗って祈ることについて
           
          
          「あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によっ
           
          て、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。」(ヤコブ5:14)比較(マルコ6:7〜13) 
           油は聖霊の象徴ですが、極端に強調されるべきものではありません。「イエスは、こう言って
           
          から、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言 われた。『行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。』そこで、彼は行 って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。」(ヨハネ9:6〜7)、このようにイエスが泥 をつけられたり、つばきをつけられたり「イエスは盲人の手を取って村の外に連れて行かれ た。そしてその両眼につばきをつけ、両手を彼に当ててやって、『何か見えるか。』と聞かれ た。」(マルコ8:23)されたのと同じようなものと考えられます。 
           (5) 罪があるから癒しの祈りを神に聞き届けていただけないという論議
           
          
           この論を強調する人々は自分の祈りが答えられないと、"癒されたけれども聖旨で召された。
           
          "などと言います。 
           私達は愛する者たちの癒しのために祈ったけれども、答えられず天にその人をおくったたくさ
           
          んの例を見聞きしています。罪があるから癒されないとするべきではありません。「4.2病気と罪 の関係」のところで述べた、病気は罪の結果であるとは言えないのと同じことなのです。 
          4.5 結び
           
          
           私達は神の全能と、神が御心に従って、この人にはこれを、他の人には別のものを与えるお
           
          方であることを信じます。 
           神は私達に聖霊の賜物としていやしを与えられます。つまりいやしは、癒されたい病人の側
           
          ではなく、癒しの祈りを祈る人、賜物を持っている人の側が重要なのです。「そこで、その子を お弟子たちのところに連れて来たのですが、直すことができませんでした。」(マタイ17:16) 
          自分が癒しの賜物を持っていないにも関わらず、"癒されないのはあなたの信仰が足りないの
           
          です。"などと言うのは論外というほかありません。 
           神癒に与る鍵は「信仰」にあることは言うまでもありません。「イエスは、その話のことばをそ
           
          ばで聞いて、会堂管理者に言われた。『恐れないで、ただ信じていなさい。』」(マルコ5:36) 
           賜物は善いものであって、求めるべきものです。「あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に
           
          求めなさい。」(コリントT12:31)祈り始める時には賜物を頂いていなくても、その癒しの課題に取り 組んで祈りに励むとき癒しの賜物が与えられるということは、ことの進展の仕方として自然で す。きっと神はそのようにして下さるに違いありません。 
           また、さらに優れた「愛を追い求めなさい。」(コリントT14:1)と神は言われるので、私達は愛を
           
          追い求めたいものです。自分だけでなく、他の人を愛してその方のために癒しを求めることは 幸いです。  |