「同労者」第33号(2002年6月)                          目次に戻る

証詞

 − 救いのお証  −

荒川聖泉キリスト教会  茶谷 義幸


 私が救われたのは昭和29年の夏でした。当時は酒に身を持ち崩していた私でしたが、何と
かこの境遇から這い上がりたいと必死でした。貧しい子沢山の長男であった私は、小学校もや
っと終えるなり、社会の荒波の中へ出されました。糸巻き小僧、メッキ工、長男であった私は働
くのが当然だと思っておりました。母は病身で、父は酒好きの意固地の人、父母の間に喧嘩が
絶えず、私は父母の顔色を伺いながら暗い少年時代を送ったものです。終戦後、父はまったく
働かなくなり、母はリュウマチのため寝たきりの生活になり私が一家の大黒柱になって9人家
族を養わなければならないようになり(妹も働いていましたが)、青春時代などは全く縁のない
存在でした。私も木石ではありませんので異性に心を奪われ死ぬような苦しい思いをしたこと
もありましたが、家庭のために全てをあきらめました。それでも私はかつて一度も父母を恨ん
だり憎んだりしたことはありません。ただただ病身の母が可哀そうでなりませんでした。そして
自分の意気地なさ、不甲斐なさばかり責めておりました。
 山本岩次郎師にお会いしたのは、あの放蕩息子のように罪のため全く孤独になっていたとき
です。家庭的な情操教育を全く受けていなかった私にとり、山本師は厳しい第二の父親のよう
な存在でした。あの当時の山本先生ご夫妻からじっと見られますと何もかもわかってしまうよう
な鋭いものを感じていました。私の知らなかった大きな愛、神の愛というのでしょうか、先生方
の愛のお取り扱いの前で、私は全くひれ伏し、悔い改め、大きな喜びとともにイェス様を信じま
した。ワカ先生からはどれほど訓戒や励ましを受け涙とともに祈っていただいたか計り知れま
せん。岩次郎先生が召天されてから十数年の歳月が流れました。週毎の説教訓戒はもとよ
り、自分が知らなかった人間としての常識、道理などというものを教えていただきました。先生
が講壇で泣かれると私も自分を責められ、ともに泣いたことがあります。昭和30年に幸いな結
婚を与えられ無一文の三帖からの出発でしたが、教会の皆様から祝福され幸い結婚生活を出
発いたしました。満33歳ごろだったと思いますが、教会の建設がなされました。
 教会に来て最も嬉しかったことは個人的な差別がなかったことです。私たちが神を愛したの
ではなく(人をえこひいきすることは罪です)とありますが、物心ついたときから貧しさのため
に、どれくらい世の中で差別されてきた私を、聖書の教えどうり先生は公平に愛してくださいま
した。

 「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物
としての御手を使わされました。ここに愛があるのです。」(ヨハネT 4:10)

 「またキリストが全ての人のために死なれたのは、生きている人々がもはや自分のためにで
はなく、自分のために死んでよみがえった方のために、生きるためなのです。」(コリントU 5:15)

 初めて手にした聖書に、山本岩次郎先生はこの御言葉を書いてくださいました。このみ言葉
を持って生涯生きる決心をいたしました。いろいろな山坂もありましたがここまで守られ導かれ
なお残された生涯、神様の証のため生きていきたいと思っております。
  2002年5月19日
           茶谷  義幸
 


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