「同労者」第33号(2002年6月)                          目次に戻る

ショートコラムねだ

 − わからない  −


 今回は"わからない"という"わけのわからない"テーマである。
 催し事の幹事さんはいう「私の独断と偏見で決めさせていただきました」と。が、この議論も似
たようなもの、少々間違いがあってもお許しくだされ!
 漢字を考えた昔人は「わからない」について考えて、「解らない」「分からない」「判らない」と区
分した。これみなニュアンスが違うのございますよ。
 皆さんは「わからない」原因は頭の働きのせいだと思われるか?
「男心と秋の空」なーんて云うとちょっと言いたいことと違ってしまう・・これは変わりやすくて当て
にならないことを言うんですよね・・が、確かに人の心はわからないものだが自分の心はその
気になって観察するとよーくわかるものですよ。

さて己の心を観察した結果、「わからない」には三つのパターンありと判明した。
 その1は自分の「知らない」ことに遭遇すると「わかりません」といって、その内容に立ち入る
ことを"心"が拒絶するのである。決して"頭――理解力"の問題ではないのである。
 その2はその内容が、会話つまりことばで提供されたり、文字すなわち文章で提供されたり、
現物を見せるとか絵や写真や映像、音などなどで提供されたりしたとき、ことばを聞いたり読ん
だり見たりすることはするが、これまた内容に立ち入らず、心がその上を素通りする。ダマスコ
途上でパウロは天からの光とともにイエスのことばを聞いたのであったが、一緒にいた人々に
はその声が聞こえたけれども内容はわからなかったのと同様に、この場合はことばは雑音とし
て響くのである。
 その3は家を建てるのに基礎を打たず、土台も造らず、柱も立てず骨組みも組まずに、いき
なり屋根をふく類である。これまことにわからないのである。がしかし、ここにもまた心の問題あ
り。基礎から順番に学ぶことは拒否するのである。

 なぜ「わかりたくない」のであるか?それは"知らないこと恐怖症"症候群に罹っているのであ
る。子供の頃はそういう病気にはかからない。大人を質問責めにして困らせるのが常である。
人間いくつぐらいから"知らないこと恐怖症"になるものか?
個人差は大いにあることは自明であるが、だれしも心がけて自分の心を観察し、「わかりたくな
い」心を追放し「わかるよう」努めると、心の老化を遅らせることができるように思われる。
 てはじめに、知らないことがでてきたとしよう。そのことばを「ふーん」といってそのままそんな
ものかと受け取るのがよい。

 さて皆さん、福音についてわからない方はおられるか?わからない理由はきっと心の問題で
ありますぞ。「導く人」を見いだしてわかることを努めなされ。「求めなさい。そうすれば与えられ
ます。」から。
 




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