「同労者」第33号(2002年6月)                      目次に戻る 

Q&Aルーム

 信仰生活のこと、教理上の疑問など様々なことについて、誰かに聞いてみたいことがおきてく
ると思います。教会の先生に伺うことは勿論一番ですが、それを独り占めしないで、すこし公開
してください。それを皆で考えると、きっと皆さんにとって益になると思います。
質問の送付先は巻末にあります。

 先月の質問の回答例(作成者:野澤)
 先月の質問は
 1.イエスは神であられることについて述べてください。
でした。

 先月号の回答例の中で、イエスご自身が自分を神であるとされたこと、直弟子のペテロもイ
エスを神であるとしたこと、パウロもイエスを神であるとしたことを述べました。
 「イエスは彼らに答えられた。『・・わたしと父(神)とは一つです。』ユダヤ人たちは、イエスを
石打ちにしようとして、また石を取り上げた。イエスは彼らに答えられた。『わたしは、父から出
た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ち
にしようとするのですか。』ユダヤ人たちはイエスに答えた。『良いわざのためにあなたを石打
ちにするのではありません。冒涜のためです。あなたは人間でありながら、自分を神とするか
らです。』」(ヨハネ10:27〜33)
 目の前を歩んでいる人イエスが神であると認めることは、ユダ人の宗教家たちには決してで
きないことでした。しかし、イエスの死と復活を見、聖霊を受けた(使徒2:1〜4)弟子たちはイエス
を神であると悟りました。イエスは最後の晩餐の説教で繰り返し聖霊が御自分を明らかにする
と語っておられます。
「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊
がわたしについてあかしします。」(ヨハネ15:26)
「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。
御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなた
がたに示すからです。御霊はわたしの栄光を現わします。」(ヨハネ16:13〜14)
 聖霊を受ける前の弟子たちにとって、イエスは確かにこの世にこられた神の子であることは
分かりましたが、その知識は接触不良の電灯がついたり消えたりするような感じでした。しかし
聖霊がおいでになって弟子たちにイエスが神であることを悟らせ、彼らの知識を不動のものと
されました。ですから教会はそのはじめからイエスを神として理解していたわけです。教会の歴
史の中では、イエスが神であると理解できない人々が次々と現れたことがわかりますが、信仰
の中心を担った人々はイエスは神であると信じ続けました。
 私たちもイエスに関する真の知識を与えられるためには、「新しく生まれ・・神の国を見ること
ができ」(ヨハネ3:3)るものとされること、「助け主すなわち・・真理の御霊」(ヨハネ15:26)を与えられる
ことがまず必要です。さもないと聖書のことばを読んでも悟ることができないからです。
 この問題について聖書がどのように示しているかが大切なのですが、それについてはR.A.
トーレイが「聖書の教え」に整理したものを抜粋でご紹介します。

<キリストの神性>
1.神的名称・・聖書はイエスに神の名あるいは神と同じ性質の持ち主の名を用いている
(1)「彼らはみなで言った。『ではあなたは神の子ですか。』すると、イエスは彼らに『あなたがた
の言うとおり、わたしはそれです。』と言われた。」 (ルカ22:70)
ここで「神の子」という名称は、神と同一の性質としての神の子であることがイエスにもユダヤ
人たちにも理解されて議論されています。

(2) 「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明
かされたのである。」(ヨハネ1:18)
「ひとり子」という名称は、クリスチャンは神の子というようなものでなく、神ご自身の子という意
味です。

(3)「それで私(ヨハネ)は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし
彼(イエス)は右手を私の上に置いてこう言われた。『恐れるな。わたしは、最初であり、最後で
あり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。』」(黙示1:17〜
18)
 この箇所はイエスの弟子であったヨハネに啓示されたものですが、「わたしは・・最初であり、
最後である」は次のイザヤ書のことばと対比されます。
「イスラエルの王である主(エホバ)、これを贖う方、万軍の主(エホバ)はこう仰せられる。『わ
たしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。』」(イザヤ44:6)  このこ
とはイエスは主(エホバ)であることを示しています。

(4)「わたし(イエス)はアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終
わりである。・・『わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたが
たにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。』」(黙示2213、16)
 この項の論は(3)に準じます。

(5) 「あなたがた(イスラエルの人々)は・・このきよい(=聖なる)、正しい方を拒んで、人殺しの
男を赦免するように要求し・・」(使徒3:14) これはステパノの説教の一部ですが、彼はイエスを
「聖なる者」と位置づけています。
「わたしは神であって、人ではなく、あなたがたのうちにいる聖なる者であるからだ。わたしは怒
りをもっては来ない。」(ホセア11:9)
 その他多数ありますが、旧約聖書では「聖なる者」は神を指すものとして用いられていまし
た。

(6) 「『見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える。あなたがたが
尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見
よ、来ている。』と万軍の主は仰せられる。」(マラキ3:1)
「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キ
リストです。」(ルカ2:11)
「そこでアナニヤは出かけて行って、その家にはいり、サウロの上に手を置いてこう言った。
『兄弟サウロ。あなたが来る途中でお現われになった主イエスが、私を遣わされました。あなた
が再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。』」(使徒9:17)
 旧約で主は神を指すことばでしたが、新約聖書の記者はイエスを主と呼んでいます。

(7)「このイエス・キリストはすべての人の主です。」(使徒10:36)
 「すべての人の主」は(6)項と同様に神を指すものです。

(8)「栄光の主」(コリントT2:8)
 「その栄光の王とはだれか。万軍の主。これぞ、栄光の王」 (詩篇24:10)

(9) 「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。
主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれ
る。」(イザヤ9:6)
 イエスに関する予言で不思議はイエスの名でしたが、旧約で主(主の使い)が不思議と呼ば
れています。
「主の使いは彼に言った。『なぜ、あなたはそれを聞こうとするのか。わたしの名は不思議とい
う。』」(士師記13:8)この主の使いはその部分の記事内容からいって主ご自身をさすものと理解
できます。

(10) 「御子については、こう言われます。「神よ。あなたの御座は世々限りなく、あなたの御国
の杖こそ、まっすぐな杖です。」(ヘブル1:8)次と比較します。
「トマスは答えてイエスに言った。『私の主。私の神。』」(ヨハネ20:28)
                                 (以下次号に)


今月の質問
1.イエスは神であられることについて述べてください。(つづき)
今回もまた、まずご自分で回答を考えてみて下さい。


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