「同労者」第33号(2002年6月)                         目次に戻る 

聖書研究

仙台聖泉キリスト教会 聖書研究会 1995.4.25 から
聖霊について(第15回)
―― 聖霊の実 ――

仙台聖泉キリスト教会   野澤 睦雄


 「御霊の実は愛です。」(ガラテヤ5:22〜23)
 今回のテーマとして、聖霊の実ということを取り上げますが、私はこれを次の二つの観点から
聖書にどう書いてあるか探べたいと思っています。
        ・結実とはなんであるか
        ・御霊の実である愛とは何であるか


6.聖霊の実(愛)
 6.1 結実について
 多くの解説者たちが「聖霊の実」ということばに気をとられて、「実を結べ」と命令されている
とを忘れています。命令に応じることは意志的な行為であって「行い」であるのです。
 聖書の以下の箇所を注意深く読んでそこから読みとれることを考察しましょう。
・マタイ3:1〜12
 バプテスマのヨハネが洗礼を受けに集まってきたパリサイ人、サドカイ人らに「悔い改めの実
を結べ」と命じた箇所
・マタイ7:15〜23
 山上の垂訓中の、偽予言者に気をつけなさい「木は実によって見分けることができる」から実
によって彼らを判断しなさいというイエスの説教
・マタイ13:1〜23
 イエスの「種を蒔く人のたとえ」とその弟子たちに対する解説
・マタイ13:24〜30、36〜43
 イエスの天の御国に関する麦と毒麦のたとえ
・マタイ13:31〜32 「からし種のたとえ」
・マタイ21:18〜22  実のないいちじくの木がみことばで枯れた奇蹟と弟子たちの質問に対する
答え
・マタイ21:33〜44
 神の国の実を結ぶ国民と結ばない国民
・ルカ13:6〜9
 実がみのらないいちじくの木について、切り倒していまいなさいと命じる主人に、番人がその
木のまわりにこやしをやってみるから一年待ってくださいといったというたとえ
 これらの中に、実を結ぶことに関連し、
−種まき−成長−結実−収穫−
といった一連の過程が極めてダイナミックなものであるとして記されていることが分かります。
種は神のことばであり、畑は人の心です。成長のための援助があり、成長を阻害するもの、結
実を阻むものがあります。また偽物を結実してしまう場合もあります。偽物に惑わされないよう
に他者の実に注意を払うようにと記されています。イエスは最後の晩餐のときまで、ヨハネが
伝えた悔改めに相応しい実以上に深く説明をされませんでした。
 「・・。わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばな
いものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込
みをなさいます。
・・わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木について
いなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまって
いなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人が
わたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びま
す。」(ヨハネ14:15〜15:17)
 ここでイエスははじめて「わたしにとどまっているなら多くの実を結びます。」と言われ、結実の
第二段階に触れられました。大切な点は「真理の御霊、助け主」、「みことば」、「聖潔」、「愛」で
す。
 イエスは弟子たちの足を洗ってまず自分が結実の模範を示されました。そして実を結ぶとは
兄弟を愛することであることを教えられました。そしてその愛の最高の姿は"兄弟のためにい
のちを捨てる"ことなのです。イエスはこの後すぐに自分でそれを実践されました。神はクリス
チャンがよい実を結んだとき、嘉納の印としてその心に「平安」を与えられるのです。またその
平安は「信仰」と表裏一体の関係にあります。
 聖霊が来られ、使徒たちを通して結実の第二段階が一層明らかに教えられました。
「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがた
は、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。・・兄弟たち。あなた
がたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、
愛をもって互いに仕えなさい。律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』
という一語をもって全うされるのです。もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お
互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。」(ガラテヤ5:1、5:13〜15)
 誰かの「行い」がその人の「実」と認められるためには、その人は「自由」でなければなりませ
ん。人は潔められた時、本当に自由になり、その人の意志で「聖霊によって歩む」ことも「肉の
行い」をすることもできるのです。自由を奪われて行った行為は、その人の責任でもなければ
誉れでもありません。
「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなこ
とはありません。・・肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶
像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そうい
った類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言ってお
きます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。しかし、御霊の実
は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。・・ ・・」(ガラテヤ5:16〜25)
 与えられた自由を用いて、御霊に導かれて生きるとき、御霊の実を結ぶことができます。
「あなたがたはよく走っていたのに、だれがあなたがたを妨げて、真理に従わなくさせたのです
か。そのような勧めは、あなたがたを召してくださった方から出たものではありません。わずか
のパン種が、こねた粉の全体を発酵させるのです。」(ガラテヤ5:7〜9) ここに刈り取りのことが
記されています。肉の行いに生きることも、御霊の実をむすぶこともその人が選んだ結果であ
る故にその刈り取りをするのです。

結実に関する実際面について
 悔改めの実、聖霊の実を結ばなくなる重要な課題は次のようなものです。つまり次のことを
行わないため実を結ばなくなるのです。
・人に対する悔改め
 「・・あなたを告訴する者といっしょに役人の前に行くときは、途中でも、熱心に彼と和解する
よう努めなさい。そうでないと、その人はあなたを裁判官のもとにひっぱって行きます。裁判官
は執行人に引き渡し、執行人は牢に投げ込んでしまいます。あなたに言います。最後の一レプ
タを支払うまでは、そこから決して出られないのです。」(ルカ12:57〜59)
 神に対する悔改めは容易なのです。ひそかな部屋に行き、「神よ私はこういう罪を犯しまし
た。」と祈るでしょう。でもその罪が人に害を与えたものであったら、その人にも赦しを乞わなけ
ればいけませんが、それはしないということです。
・この世との分離
 「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつな
がりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアルとに、何
の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。神の宮と偶像とに、
何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。『わたしは
彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼
らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そ
うすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわ
たしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。』 愛する者たち。私たちはこのような約束を与
えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖き
を全うしようではありませんか。」(コリントU6:14〜7:1)
 救いに与ってもその生き方が変わらないことであって、この世の楽しみ、富、名声、権力とい
ったものがその行動原理になっている場合です。
 聖霊に導かれて歩み出すとき、それは救われたばかりであっても、これらの課題を通過させ
て頂けるものと思います。


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