「同労者」第34号(2002年7月)                          目次に戻る

証詞

 − 救いのお証し  −

荒川聖泉キリスト教会  茶谷(相沢)優子


(仙台教会創立30周年記念、新会堂献堂記念文集に載せられた証しをご本人の許しを得て
ここに掲載させていただきました。もう21年ほど前に書かれたもので、姉妹はまだ独身で仙台
教会に所属していた時の証詞ですが、今もその恵みに歩んでおられ、その恵みの確かなこと
が姉妹の生き方によってあかしされております。福音を求める方々のためによい参考になるも
のと思います。掲載のお願いに対して次のお便りを添えてくださいました。・・編集委員)


 主の御名を賛美します。証の件、承りました。今懐かしく文集を読み返しておりました。今も
変わらずに同じ信仰を与えられていることを感謝しています。
よろしくお願いいたします。                    茶谷優子


 私は小さい時から、おとなしい内向的な性格の者でした。自分から外にとけこむことの出来な
い者でした。そんな自分から、なかなか脱皮出来ないまま、学生時代を過ごしました。心の中
ではたくさんの思いがあったのですが、うまく話すことが出来ず、つい自分の殻に閉じこもって
しまいました。それですから、本当の親友もなかなか出来ませんでした。
 そうした寂しい思いと自分の性格を知りながらも、高校時代に三浦綾子さんの本と接し、職業
についてからもこの本にふれる度に、何か新鮮な、そして人として真に生きる道がこの中にあ
ると感じるようになりました。本中に出てくるクリスチャンとしての敬虔な真摯な姿に心打たれ、
私もこの人達のようになれたらと思うようになりました。ですから偶然にも叔父から「教会に行っ
てみないか」というお誘いがありました時、「よし、行ってみよう」ということになったのです。
 初めて伝道会に出席したその時のことは余り良く覚えておりませんが、ただその時歌われ
た、いつくしみ深き・・の讃美歌が、私の心に大きな慰めを与えて下さいました。そのことが強く
心に残っています。集会後山本先生より礼拝へのお誘いを頂き、尚そのことを心に留めながら
次の聖日の礼拝へ出て参ったことです。そしてそれから私の教会生活が始まりました。
 教会へ来て初めの頃は、説教も何を語られているのかわからないことでしたが、ここに自分
のおるべき所を見出した思いで、日曜日が来る度に教会に来ないではいられない思いでした。
 昭和53年12月に受洗させて頂きましたが、(そのいきさつは次のようなものでした。)昭和5
3年6月5日に悔い改めをさせて頂きました。その前日、伝道会の説教に於いて、「まことにま
ことにあなたに告げます。人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ
3:3)の聖言が開かれ、この聖言により、それまでの自分の心の在り方、それは自分が周りから
傷つけられることを恐れて、つい自分の殻に閉じこもってしまうこと、自分の行った行為に対し
て代償を求める者であり、自分には甘く他人には厳しい目を持っており、心の中ではいろいろ
と人を批判したり、そうした二心のある自分の姿を思うにつけ、そうであってはいけない、いくら
集会に出席しても、聖書を読んでも、お祈りしても、私自身がそのような者であっては何もなら
ないんだ、ということがわかりました。そして翌日、先生と神様の前に告白し、悔い改めさせて
頂きました。
 それまで周りから絶えず自分を守ろうとしてきた必死な思いと荷が、すっと解き放たれたよう
で、その時を境に、自分一人で頑張って生きるのではなくして、神様と共に歩む者へと変えさせ
て頂きました。この時、ヨハネの手紙第一1章9節の聖言を与えて頂きましたが、悔い改めを
通して、静かに自分のかつての姿を振り返り見つめることが出来るようになった今、私が小学
生の時、なかなか外にとけこめないことの故に、体の不調を訴えては登校拒否をし続け、両親
や家族に大きな心配をかけてさせていた当時の自分の姿を思い起こすことですが、真に神様
は、このような者にも救いを与えて下さり、すべての罪から私をきよめて下さる方であることを
信じ感謝するものです。そしてなお、この救いと与えて頂いた恵みとを、周りの者達へ分かち伝
える者でありたいと思っています。
 母より、私は叔父が若かった時、小嶋先生の時代に、私の家の二階で伝道集会を開いたこ
とがあるということを聞きますが、それと共に、教会とは無縁なかけ離れた所にあった者が、今
こうして神様と共に歩む信仰の道に導かれていることを思うと、真に、叔父の信仰の故に、私
の生まれる以前から、神様が心に留めておいて下さっていたのではないかという不思議な思い
が致します。そしてヨハネ15:16にある聖言のとおり、ただ神様の選びの中に、今確かな道を
歩んでいるのだと確信すると共に、教会創立三十周年という歴史の重さの中で、救われて満
三年という、まだ十分の一の歩みしかありませんが、これから一年一年、信仰生活の歩みの
中で、神様はどのような所へ導いて下さるのか、又、何年か何十年か後になってこの文集をひ
もといた時、どのような思いをもって、この自分を見つめることだろうかと思うと、測り知れない
ことですが、ただ一つ、何時の時にあっても、この救いを基にして、神様に対する信仰を、絶え
ず新しく持たせて頂き、成長させて頂く者でありたいと切に願っております。




目次に戻る   表紙に戻る