「同労者」第35号(2002年8月)                目次に戻る

巻頭言
− 今 朝 の 説 教 − 
仙台聖泉キリスト教会   玉城 憲一

「神はヤコブに仰せられた。『立ってベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが
兄エサウからのがれていたとき、あなたに現われた神のために祭壇を築きなさい。』」(創世記
35:1)
「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練ら
れた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失
望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たち
の心に注がれているからです。」(ローマ5:3〜5)


 2002年7月7日礼拝を終わって後、野澤兄から「礼拝の時メモをしているようだから、今日
の礼拝のメッセージを同労者の巻頭言に書いて下さい」と言われびっくりしましたが、断るわけ
にもいかず承知してしまいました。間違って伝えたり、余計なことを付け加えたり、足りなかった
りしないだろうか、と不安になりましたが、神様が助けて下さるとの信仰を持って書かせて頂き
ました。
 今年の仙台教会の御言葉として、エペソ人への手紙2章22節「このキリストにあって、あなた
がたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」が与えられ、山本嘉納先生
の礼拝のメッセージが続いております。半年が過ぎた今、神によって導かれ守られている事を
感謝しております。この本日の礼拝の際に聖餐式を持たせていただきました。
 礼拝のメッセージは、創世記35章1〜15節からなされました。あらすじをお話しますと、ヤコ
ブはその名の通り押しのける者、自分の欲しい物は人を押しのけても取ってしまうという性格で
あり、兄エサウから長子の権と神の祝福とを取ってしまいました。そのために母リベカの兄であ
る伯父のラバンの所に逃げて行かなければなりませんでした。20年後、カナンに帰って来た
時に、兄エサウに仕返しされるのではないかと恐れました。しかし神の助けにより守られまし
た。ヤコブはエサウと別れるときエサウの住んでいるセイルに行くと言いましたが、反対側のス
コテに行き、次にシェケムに住みました。そこで祭壇を築き礼拝をしました。しかし、ディナの問
題が出、自分の子供たちシメオンとレビがカナン人を襲い、その町を略奪してしまいました。そ
のためにシェケムにいられなくなり、神のご指示でベテルに行きました。そこで祭壇を築き、神
を礼拝しました。シェケムの祭壇はまやかしでしたが、このベテルの祭壇では真の礼拝ができ
ました。
    ・・・・・・・・・
 必ずしも話された順序通りではありませんが、以下のような内容のことが語られました。
 真の礼拝をするものは、心からの畏れと愛を持って礼拝する。神の憐れみに大いに感謝す
る。少ししか罪を赦してもらえない者は少ししか愛さない。多く赦してもらった者は多く愛する。
不変の愛を持つ。地上の生涯の間に永遠のいのちを約束として与えられている。
 神の摂理であるならば、患難を通して神に祈る。すると神に近づくことができる。神を喜ぶこ
とができる私たちは失望に終わらない。不変の神は私たちを捨てない。祈りは神に届き続け
る。聖霊によって私たちの心に神の愛が豊かに注がれている。
 成功すればよいのではない。神ご自身ではなく、神がくださるものをもって喜ぼうとしやすい。
私たちは敬虔に生きなければならない。敬虔の意味合いは神の前に戻ること(創世記35:1)で
あって、「神を求めること」と「神に願い事を求めること」とは違うものである。私たちは本当の意
味で神を求めることをしているであろうか?
 私たちは自らの徳でやって行こうとする。どうしても駄目なもの罪深いものを一つ二つ出し、
自分の弱さを隠しながら赦してもらおうとする。私たちの中にある「異なる神」は捨てられなけれ
ばならない (創世記35:2)。自らの善行をもって"くさいものにフタ"式に、捨てるべきものを覆うこ
とはできない。シェケムの祭壇はそのようなものであった。
 私と共に歩んで下さった神を求めに行こう(創世記35:3)とヤコブは言った。大切なことは「言う
ことをきく」ことである。神の方を向き、神が"こうせよ"と言われることに「わかりました」といって
従うことである。神が共におられるということが重要であることが子供達に示されなければなら
ない。子供達もまた「分かりました」といって従わなければならない(創世記35:4)。豊かな人格的
交わりがなければならない。神は"私に応え、私と共に歩んできて下さった方"である。神は人
とのコミニュケーションをもつことを望んで、喜んで受け入れて下さる方である。それは親と子
の関係に似ている。親は子供と一緒に会話することを喜ぶ。思うようにゆくこともあれば思うよ
うに行かない時もある。どんな時にも共に生きることが真の親子関係であり、神と人との関係
である。
 ヤコブからイスラエルに変えられる。(創世記35:10) 神の祝福の約束をもらったヤコブ、私た
ちも患難の来る前に神の変革の祝福をもらいたい。
     ・・・・・・・・・
 この説教をうかがって、私はつぎのように思いました。将来に対する自分なりの生き方や目
標と神様のご計画があります。それが一致するときは良いのですが、一致しない時は行き詰ま
ってしまいます。成功するかしないかの問題でなく、神のみ旨に沿った生き方ができるようにな
りたい。それが大切なことである信仰の姿勢を子供に伝えることができる信仰であると思いま
した。自らの反省しなければならない点として神様に示されました。
 「私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこで、私の苦難の日に私に答え、私の歩い
た道に、いつも私とともにおられた神に祭壇を築こう。」(創世記35:3)




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