「同労者」第35号(2002年8月)                          目次に戻る

聖書講義

 − 昨日のサムエル記 (その22)  −
仙台聖泉教会  牧師 山本 嘉納

 人は必ず死ななければならない。キリストの再臨が私達の死の前に行なわれたらそれを免
れる。しかし、キリストの昇天からかれこれ2000年、期待され続けた再臨はまだ無い。となる
と再臨の準備も大切だが自らの死の準備もきちんとしておかなければならない。最初から外の
夏の日差しに反して暗いお話になってしまっている。現在、死亡率のトップを独走中の癌だか、
最近教わったところによると末期癌にたいするホスピス、いわゆる痛みを緩和する治療(直す
治療ではなく)がずいぶんと発達しているらしい。家内の母を癌で送ったが最後は痛み止めの
モルヒネのためほとんど意識が無かった。今は痛い患部だけに痛み止めを注射する医療方法
が確立して末期の癌患者とは言え意識がなくなってしまうことは無い。それは何を意味するか
と言うと死の宣告とそのための備えを限られた時間の中ですることができるのである。癌の患
部が飲食に問題の無い所であるなら食べたいものを食べて最後を迎えるのことも出来る。多
少の運動が許されるなら旅行をして思い出の場所をもう一度尋ねることも出来る。お世話にな
った人々を集めてお別れ会をする人もいるそうである。何より精神的、霊的ケアーが求められ
る時に宗教家がいかにその必要に答えられるかが鍵である。心安らかに死を迎えられるとし
たらなんと幸いなことであろうか。
キリストの十字架の死に際し最後の葬りに訪れた人の中にニコデモがいた。普通、人が亡くな
った時にその葬りをするのは家族の責任である。そう考えるとキリストの葬りを許された家族
同然の人は、弟子たちではなくキリストの公生涯の宿敵、律法学者・パリサイ人の代表のよう
なニコデモであった。この人物の記録はヨハネの福音書に出ている。聖書で一番有名で教会
学校の子供たちが必ずと言っていいほど暗証するヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子を
お与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、
永遠のいのちを持つためである。」はこのニコデモがキリストに神の国に入るためにはどうした
らよいかを尋ねに来た時に語った愛のメッセージである。御子、即ちキリストを信じることによ
ってそれは約束されると言われた。キリストが神の御子であることがこの記録を読むと良く分
かる。奇跡によってそれを証明しようとしてはいない。御使いも奇跡的業を行なうことが出来
る。特別の力を持った人間ですらそれが出来る。しかし、あるものを信じてここまで歩んで来
た、年老いた指導者ニコデモがそこまで築き上げた全てのものを捨てへりくだってご自身によ
りすがることを期待し信じたキリストはまさしくメシヤである。迷いながらも間に合ったニコデモ
も大した器である。キリストの死、十字架上にあたかも失敗したかのように映っているキリスト
に彼は自らを委ねることが出来たのである。「わが罪のために命を捨てし贖い主」と告白できた
に違いない。なぜなら逃げ出して葬りを許されなかった弟子たちに反してニコデモは香油を30
キロも携えて堂々とその勤めを果たしたのである。あの夜のキリストの愛のメッセージと信頼
は無に帰しなかったのである。なぜ、サムエル記とは関係ないことを長々と書いたかと言うと信
仰の継承の意義をお話したかったからである。私達は、自らの葬りを自らですることが出来な
い。そして人生最後の舞台は自らではなく自らの愛した者達によってなされる。彼らが信仰者
であり、自らと同じ信仰を持つ者であり、どのように我らが信仰に生きたかを明らかにしてくれ
るものであることを願うべきである。
ダビデの後半生はこの信仰の継承のために大きな戦いと涙を強いられたことが聖書に記され
ている。王位と王国の確立は順調に進んだ。苦労したサウル王からの王国継承もその後の他
国との戦いの順調さによって償われたかのように見えた。しかし、バテ・シェバとの姦淫事件は
次の者への王国継承に大きな影を落とした。現代もそうだが父親が仕事に夢中になりある程
度の地位と糧を確立しなければならない。それまでの間、子供は母親のみに委ねられ大切な
しつけが半分になってしまう。ダビデが王国確立のため奮闘したと同じように現代も簡単に負
けるわけには行かない戦いをお父さんはしている。神の守りも導きもそれに含まれての話であ
る。しかし、ひと段落したら自らの子供に注力すべきである。前回も書いたがここまで頑張った
からご褒美としてと自らの欲するところを行なって、収拾が付かなくなるような失態をさらしては
いけない。ダビデは終生、このことを悔やみながら歩んだのである。
であるからダビデの信仰と王国の継承は困難を極めたのである。もし彼があきらめてなるよう
になれとばかりにその後を歩んだらソロモン時代のイスラエルの繁栄は無く、再び隣国に脅か
される士師の時代の繰り返しになっていたであろう。神の哀れみはダビデに豊かでありそれに
取り組む勇気を彼に与えたのであった。
王位の継承は、究極的には経験したものにしか分からない混沌の世界であろう。譲られるもの
の壮大さを考えると欲望を抑えることは困難である。しかし、同時にその責任の重さは量りが
たい。加えて取り巻きという人々の思惑が入って来ると二重三重に絡み合った複雑な人間模
様を作り出す。聖書は、その中に神の御旨が働いていることをも明らかにしようとしている。ダ
ビデの長子アムノンは見事にスポイルされている。次男キルヤブは幼くして亡くなっている。彼
はあのアビガイル(サムエル記T25:3〜42)の子であるからもし生きていたら期待できたかもしれ
ない。三男はアブシャロム。彼はマアカと言う妻の子である。ダビデが彼女をめとったのはおそ
らくヘブロンで王位に付いたあたりであろう。彼女はゲシュルの王タルマイの娘であった。ゲシ
ュルはガリラヤ湖の東から北東側に広がる小国でイシュ・ボシェテがイスラエルの王をサウル
亡き後、受け継いだ時、彼を牽制するためになされた同盟による政略結婚である。タルマイは
小国の王ゆえの洞察力からダビデに目を付け、早い時期から同盟関係を確立した。血統から
すると異邦人であるがアブシャロムには期待する才気と言うか資質があったかもしれない。四
男アドニヤは相当、甘やかされていたので最初から数に入っていなかったかもしれない。「彼
の父は存命中、『あなたはどうしてこんなことをしたのか。』と言って、彼のことで心を痛めたこと
がなかった。そのうえ、彼は非常な美男子で、アブシャロムの次に生まれた子であった。」と列
王記に記されている。いい子はほっといてもいい子なのではない。いい子もきちんとしつけなけ
ればならない。何をしつけるのかをあえて探してしつけるのである。親の手をあえて入れないと
いい子もだんだん腐ってどうしようもない子になってしまう。
長男アムノンが親父の真似とばかりに愚かな事件を起こした。欲しいとなったら何が何でもと
いうのが人間の罪深さの実態である。異母妹タマルに対する破廉恥な事件はダビデの家を揺
さぶり、殺人事件にまで発展する。子の失態の始末は親の責任である。否、子を愛する親だ
からこそ雄々しくこれを御して家庭を治めなければならない。ダビデの罪を模倣するかのような
長子アムノンの事件にダビデはたじろぎその責任を果たせなくなってしまう。あれほど強い信
仰を持っていたダビデが、罪によって完全に弱められてしまった現実を見る。人は自らの成功
を世にあって見出すかもしれない。しかし、信仰者の成功は家庭がそれに加えてどうなってい
るかを問わなくてはならない。ニコデモのように間に合えばいいが、そうでなければ悲しみは計
り知れない。 




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