「同労者」第35号(2002年8月)                          目次に戻る

信仰良書

 − 神 へ の 道  (28) 
D.L.ムーディー 著   仙台聖泉キリスト教会 山田 大 訳

第3章 二種類の人々

 「ふたりの人が、祈るために宮に上った」(ルカ18:10)
 ここで私は二種類の人々について語りたいと思います。一つは救い主の必要を感じず、御霊
による認罪の経験のない人々、もう一つは自分の罪を認め、「救われるためには、何をしなけ
ればなりませんか」と叫ぶ人々です。
 すべての求道者は二つに分類することが出来ます。彼らは、助けを望まないパリサイ人の精
神か、救いに飢え乾く取税人の精神かのどちらかを持ちます。もしパリサイ人の精神を持った
人が集会の後に残ったならば、彼に語りかけるにはローマ人への手紙3章10節、11節を用
いるのが最もふさわしいでしょう。すなわち「それは、次のように書いてあるとおりです。『義人
はいない。ひとりもいない。 悟りのある人はいない。神を求める人はいない』」パウロはここで
生まれつきのままの人について語っています。「すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者
となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない」さらに17節以下にはこうあります。「『また、
彼らは平和の道を知らない』『彼らの目の前には、神に対する恐れがない』 さて、私たちは、律
法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、
すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです」

  誰が罪を犯したか
 22節の最後の部分からのところを見てみましょう。「何の差別もありません。 すべての人
は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」人類の一部ではなくすべてが「罪を
犯したので、神からの栄誉を受けることができ」ないのです。罪を認めさせるために非常によく
使われるもう一つの聖句はヨハネの手紙第一1章8節「もし、罪はないと言うなら、私たちは自
分を欺いており、真理は私たちのうちにありません」です。
 私たちが東部にある人口4万人ほどの町で集会をした時のことです。一人の婦人が私たち
のところに来て夫のために祈るよう頼みました。彼女は夫を集会後の個人伝道に連れて来た
がっていました。私たちはあちこち旅をし多くのパリサイ人的な人に会いましたが、この人はあ
まりに自分を正しいとするので彼を認罪に導く手がかりは針の先ほども無さそうでした。私はそ
の婦人に言いました。「あなたの信仰を見させていただいて感謝です。が、私たちはご主人に
はに近づけそうにありません。彼は私がかつて出会った中で最も独善的な人です」彼女は言い
ました。「いいえ、どうしても近づいていただたなくてはなりません。もし夫が改心することなしに
この集会の期間が終わってしまったなら、私の心は張り裂けてしまいます」彼女は夫を連れて
来ることに固執しましたが、私は彼を見ただけでほとんどうんざりしてしまいました。



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