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          「同労者」第35号(2002年8月)
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          わかふうふわかもん 
          「それから、イエスは弟子たちに言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を
           
          捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。』」(マタイ16:24) 
           私はこの「ついて来たいと思うなら」と言う言葉が心に留まります。本当に大切なことなのだと
           
          思うからです。なぜなら私が神学生の時「人間は、心の中で何を思っているかによって、その 思いなりの人間になっていきます。」とある先生に言われたことがありました。今考えると厳しく てこわい言葉だなと思います。 
           人間の思いは初めは外には見えませんが、必ずいつの間にか少しずつその人生を方向づ
           
          けたり、言葉、行動、表情にも出てくるものです。私たちは日々何を思っているでしょうか。もし そのまま鏡に映し出されたら全く顔が赤くなり、見ていられない思いにならないでしょうか。「こ んな思いをあなたは持っているんだ」と誰かに言われそうです。 
           「私の心の思いが神のみこころにかないますように」(詩篇104:34) 人間は外側の行為で、人
           
          前では何とかつくろったり飾ることができますが、他人の分からない心の中の思いが神に喜ば れるということは、本当に難しく自分はどうだろうと思い悩みます。しかし、そうなる時は人生最 高の喜びになることと思うのです。 
           イエス様は私たちの隠れたこの「思い」を問題にし、心からついていきたいとの願いがそこで
           
          起きてくるのを求め、待っていて下さいます。そしてついに「思う」ということは実に大きな素晴ら しい力になるのです。 
           自分を捨て、自分の十字架を負いぬきたいという願いに変わるのです。自分が思ったところ
           
          で一体何になるのか、何も変わらないのではと不安になることもあります。しかしこの思いが信 仰の始まりです。 
           神の世界に入りたいと思えるように、多くの人々が祈っています。イエス様の十字架の前に
           
          出ようと思う気持ちが与えられるように祈っています。 
           自分の思いに目を留めて下さい。
           
          
           イエス様は弟子に御言葉を下さったように、私たち一人一人の思いを大切にして下さり、待ち
           
          つづけて下さっています。  |