「同労者」第36号(2002年9月)                  目次に戻る    表紙に戻る

論  説
 ― 戦いの相手をまちがえないようにしよう ―

「私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者と
なるためなのです。
 競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っている
でしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。また闘技をする者は、あ
らゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは
朽ちない冠を受けるためにそうするのです。
 ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘
もしてはいません。私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に
宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。」
(テモテT 6:12)


 私たちの信仰生活は、旅にたとえられ、競技にたとえられ、戦争にたとえられます。
 私たちは実際に自らの信仰生活に戦いがあることを実感しているのではないでしょうか。そし
て振り返ってみるなら、その戦いを上手く戦えた場合もあったし、戦えなかった場合もあったこ
とであろうと思います。パウロも上記のみことばのとおりテモテに手紙を書いて彼も戦いがあっ
たことを示しています。パウロは私は罪人のかしらであったけれども、イエス・キリストが私を使
徒に任命したのは、私をすべての人の模範とするためであるとしています。ですから彼の戦い
を学ぶことは、私たちがこれからの戦いを戦う上において重要な手がかりを与えるものである
に違いありません。
 彼はまず自分はすべて福音ために行動していると述べています。その理由は、彼自身福音
の恵みをともに受ける者となるためであるとしています。そして競技を例に引用し、賞を受けら
れるように走りなさい、賞をえるためには自制が必要で、彼らは朽ちる冠のためにそうしている
けれども、私たちはもっと素晴らしいもの、朽ちない冠を受けるため戦いをしているのだから、
なおのこと自制をして戦える心身をつくらなければならない、それは当然のことであるとしてい
ます。パウロでさえも自分の体を打ちたたいて従わせているといっています。
 もう一つ彼は戦いの相手を知っていることを述べています。決勝点が何処にあるかわからな
いまま走ったり、空を打つようなボクシングはしないと。
 私たちはこの世の人々を喜ばせるボランティアに召されているのではありません。この世の
人々と政治や経済、様々な趣味教養や学問すなわち工学、医学、心理学、文学などあるいは
芸術、音楽等々で競うのでもありません。ことばとしては"そうだ"と言っても実際の場に臨むと
"私にはこれこれがない…"と言ってしまいやすいものです。ですから戦う相手を間違えないよう
にしましょう。私たちに委ねられているのは「福音、十字架のことば」なのですから。
   

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