「同労者」第36号(2002年9月)            目次に戻る     表紙に戻る

聖書研究

仙台聖泉キリスト教会 聖書研究会 1987.9.30 から
飲酒に関する聖書の教え

仙台聖泉キリスト教会   野澤 睦雄


「あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされて
はいけません。・・、酒に酔う者・・はみな、神の国を相続することができません。」(コリントT 6:9
〜10)

 私たちは私たちの唯一の規範とする聖書に立ち帰り、聖書は飲酒についてどのように教えて
いるかを学び、そして学んだところに生きるべきです。もしも聖書が酒を飲んでよいと教えてい
るのでしたら、私たちはこの世の人々と同様に宴席を開き酒を楽しめばよいのですし、聖書が
飲酒を禁じているのでしたら、断固として酒を拒絶しなければなりません。
 そのような視点から飲酒というテーマについて聖書を学んで見ました。この学びの対象は信
者であって不信者ではありません。兄弟と呼ばれる人々の間ではどのようでなければいけない
か、ということであって、不信者も含めたらパウロの言うように、私たちはこの世から出て行か
なければならなくなってしまいます。
 結論を先に述べますと、聖書は、聖霊の時代に生きている現在の私たちに対して、飲酒
を明確に禁じていると私は確信しました。
 かつては、福音派の人々は酒を飲むなどということは考えもしませんでした。しかし、そこに
いろいろな考えを持ち込む人々が現れ、飲酒の習慣が教会の中にさえ侵入しようとしていま
す。時代の波は私たちの教会、聖泉連合の中にも押し寄せてきています。目を覚まして悪い習
慣を排除しないならば、私たちも敬虔とは名ばかりで、その実を捨てる者となるでしょう。
 私はここに以下の順に従って、この問題について聖書がどのように教えているかを整理して
みました。
    1.飲酒に関する聖書の教え――その救拯史的理解
    2.飲酒を是とする人々の論拠に関する考察
    3.飲酒に関わる聖書中の人物からの学び


 1.飲酒に関する聖書の教え――その救拯史的理解
 <旧約時代の飲酒>
 旧約の人々が、心に何のわだかまりも感ぜずに酒を飲んでいたことは疑う余地がありませ
ん。以下の聖書の記事はそのことを示す例です。
・創世記27:25〜29 イサクはぶどう酒を飲んでいました。
・創世記43:29〜34 ヨセフは兄弟達と酒を飲みました。
・民数記28:1〜10 聖所で主への注ぎの献げ物として強い酒を注ぎ・・ました。
・サムエル記T25:18 ナバルの妻アビガイルがダビデに贈ったものの一つにぶどう酒がありまし
た。
・詩篇23:5 "私の杯はあふれています"とダビデは歌い、酒が豊かにあることを、神の祝福の
一つと表現しています。
・エレミヤ40:12 ユダヤ人は・・ぶどう酒を集め・・ました。

 旧約の人々には、飲酒は許容されたものでした。これは一夫多妻を許容されていたのと同様
の事柄であると考えられます。しかし、以下の記事の中に飲酒が人々に何をもたらすか象徴
的に示されています。
・レビ記10:8〜11 『祭司』は会見の天幕(幕屋)に入るときは、酒を飲んでいてはなりませんで
した。これは「聖なるものと俗なるもの、汚れたものときよいものを区別する」能力が飲酒によ
って失われるからであることが示されています。(エゼキエル21:23)
 新約の私たちは、常に祭司であり、常に至聖所にいる者、聖霊がともにおられるものですか
ら、旧約の祭司が聖所に入る時以上に身を潔く保たなければなりません。(ペテロT2:9)
・箴言31:4〜5 「酒を飲むことは『王』のする事ではない。酒を飲むと『さばき』を曲げる。」
 私たちはキリストと共に王なのですから、さばき(決定すること)を曲げないためにも酒を飲ん
ではいけないのです。(ペテロT2:9、テモテU2:11〜13)
・民数記6:1〜5 神に誓願を立てたナジル人としての期間も酒を飲みません。願い事をもって
神に近づくものは酒を飲んでいてはいけないのです。

<新約時代の飲酒>
 イエス・キリストは、ヨハネ14:26に「助け主・・聖霊は・・あなたがたにすべてのことを教
え・・」られると、ご自分の後のことを述べられました。ですから、聖霊がおいでになって教えら
れることが大切なのです。
 主イエス・キリストが栄光を受けられて聖霊がおいでになり、新しい時代が到来した時、聖霊
は聖書記者を通じ、以下のように教えられました。
・ローマ13:11〜14 飲酒はやみのわざ
「私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。・・酩酊・・の生
活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさ
い。肉の欲のために心を用いてはいけません。」
・ローマ14:21 飲酒は兄弟をつまづかせる
「ぶどう酒を飲まず、そのほか兄弟のつまずきになることをしないのは良いことなのです。」(こ
の箇所の趣旨は「飲酒」よりも「兄弟をつまづかせないこと」にあります。)
・コリントT5:11 飲酒者は兄弟ではない
「私が書いたことのほんとうの意味は、もし、兄弟と呼ばれる者で、・・、酒に酔う者、・・がいた
なら、そのような者とはつきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない、ということで
す。」
・コリントT6:9〜10 酒に酔う者は不正の者で神の国を相続できない
「あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされて
はいけません。・・、酒に酔う者、・・はみな、神の国を相続することができません。」
・ガラテヤ5:19〜21 飲酒は肉の行いである
「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。・・、酩酊、・・、そういった類のものです。前
にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをし
ている者たちが神の国を相続することはありません。」
・エペソ5:18 飲酒には放蕩がある
「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」
・テサロニケT5:5〜8 飲酒する者は闇の子
「あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではあ
りません。ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょ
う。眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。」
・テモテT3:2〜4 監督に相応しくない
「監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫
であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、 酒飲みでな
く、・・」
・テモテT3:8〜9 執事に相応しくない
「執事もまたこういう人でなければなりません。・・、大酒飲みでなく、・・信仰の奥義を保ってい
る人です。」
・テトス1:7〜9 神の家の管理者に相応しくない
「監督は神の家の管理者として、非難されるところのない者であるべきです。わがままでなく、
短気でなく、酒飲みでなく、けんか好きでなく、不正な利を求めず・・」
・テトス2:1〜5 老齢の婦人に相応しくない
「・・、年をとった婦人たちには、神に仕えている者らしく敬虔にふるまい、悪口を言わず、大酒
のとりこにならず、良いことを教える者であるように。・・」
・ペテロT4:3 飲酒は異邦人の望むもの
「なたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行ない、・・、酔酒、・・などにふけったも
のですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。」

 以上の聖句を考察するとき、聖霊は新約の時代に入ったとき、旧約とは別の教えに導かれ
たと判断できます。
 酒は人を道徳的なもの、霊的なものに無感覚にさせ、潔きと汚れを区別することができなくさ
せます。ですから酒に満たされる(酔う)のではなく御霊に満たされていなさい、と勧められてい
ます。
 聖霊が飲酒を止めなさいと命令しておられるのですから、飲酒をする者は聖霊に逆らう者で
す。


 2.飲酒を是とする人々の論拠に関する考察
 2.1イエス・キリストも酒を飲んだではないか?

「イエス・キリストも酒を飲んだということが、酒を飲んでもよいとする人々の最大の論拠となっ
ています。
 イエスはカナの婚礼の席で弟子達と共に酒を飲まれ、ぶどう酒が足りなくなった時水をぶどう
酒に変えられて、花婿のピンチを救われました。(ヨハネ2:1〜11) イエス・キリストは「人の子が来
て食べたり飲んだりしていると『あれ、見よ。食いしん坊の大酒のみ、取税人罪人の仲間』と言
います。」(マタイ11:17〜19)と自分の事を非難する人々の言葉を通して、ご自分の飲み食いに言
及しておられます。
 イエス・キリストの行動についてよく知っておかなければならないことは、イエス・キリストは旧
約の規範に従って生活されたのであるし、聖霊がこられるまでは弟子達もそうであった、という
ことです。
 「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐え
る力がありません。しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真
理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとし
ていることをあなたがたに示すからです。」(ヨハネ16:12〜13)
 イエスの歩まれた通りに歩むのだ、イエスが酒を飲んだから私も飲む、と主張する人は、イエ
スと同じように割礼を受け、旧約の律法を守って生きるべきです。イエスキリストはモーセの律
法に従って生活されたのですから。

 ペテロも"キリストもカナで酒を飲まれたのだから私たちも酒を飲んでよいのだ"とは言いませ
んでした。かえってペテロの手紙第一4章3節に示す通り「・・かつては・・酔酒・・にふけったも
のですが、それは過ぎ去った時で十分です。」と記して、飲酒に反対しました。

 2.2パウロもテモテにぶどう酒を飲めと勧めているではないか?(テモテT5:23)
 この箇所も酒を是とする論拠としてよく引用されるようです。
 この箇所の解釈には、彼ら置かれている状況を考えなければいけません。テモテは"胃のた
めに"飲むようにとすすめられているのです。内容はさだかでありませんが、彼は胃が悪かっ
た。胃痛かも知れません。そのため薬として用いるようにということです。彼は大胆な人ではな
く、"勇敢に戦いなさい"と励まされなければならない人物でしたから、胃が悪いといっても神経
性のものであったかも知れません。そのためぶどう酒が有効であったのでしょう。
 この聖句の私たちへの適用は明白です。体が悪くそのための医薬として、医師が処方される
のであるなら、薬として飲めばよいのです。
 酒を飲みたいあなたは胃が悪いのですか?私たちはよくその動機に注意を払うべきです。"
なぜ酒を飲みたいのか?"と。

 2.3聖書には「酒に酔うな」と書いてあるが「酒を飲むな」とは書いてないではないか?
 酒は「酔い」を楽しむものです。酔うことと飲むことは同義であって、酒に酔うなとは酒を飲む
なという意味です。


 3.飲酒に関する聖書中の人物からの学び
 以下の聖書記事をまず読んでみましょう。
・創世記9:20〜27
「さて、ノアは、ぶどう畑を作り始めた農夫であった。ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で
裸になっていた。カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。それで
セムとヤペテは着物を取って、自分たちふたりの肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の
裸をおおった。彼らは顔をそむけて、父の裸を見なかった。ノアが酔いからさめ、末の息子が
自分にしたことを知って、言った。『のろわれよ。カナン。・・』」ノアは酒を飲んで酔い、醜態をさ
らしました。
・創世記19:30〜37
 ロトの娘たちは父に酒を飲ませ、泥酔している父によって子を得ました。彼女たちの子らは
神の民の敵となりました。
・列王記U10:15〜27、エレミヤ35:1〜19
 レカブの子ヨナダブの子孫は、ヨナダブの命によって酒を飲まないことを信条として生活しま
した。神は彼らをよしとされました。(ヨナダブの子孫の行動について神が嘉納されたのは"先
祖の命令を守ったこと"に力点があり、酒を飲まないことに力点があるのではありません。)
 これらの記事を総合的に判断するとき、酒というものは人の知覚を損ない、判断力を鈍ら
せ、霊的・道徳的感覚を失わさせるものであることが分かります。

 <まとめ>
 聖霊がお嫌いになることを行うことは、罪なのです。 
 聖霊は、酒に酔った人の体に永く住まわれることをよしとされません。今は聖霊の時代です
から、私たちは聖霊が喜ばれるように生きなければならないのです。
 聖霊はこう言われます、「我聖なれば、汝らも聖なるべし。」(ペテロT1:16文語訳)

「ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。また、酒に酔っ
てはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌と
をもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」(エペソ5:17〜19)


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