「同労者」第37号(2002年10月)            目次に戻る     表紙に戻る

あかし

荒川聖泉キリスト教会   茶谷 義幸


(本稿は、荒川教会「教会だより」20〜22号に、「語り継ぐ教会の歴史シリーズ」という題で掲
載されたものです。)

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがた
を休ませてあげます。」(マタイ11:28)
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去っ
て、見よ、すべてが新しくなりました。」(コリントU5:17)


 私は昭和29年10月3日、故山本岩次郎先生によって小雨ふる江戸川で数人の兄姉と共に
洗礼を受けさせていただきました。今は亡き佐藤ハナ姉と一緒でした。
 私は大正11年10月22日関東大震災の前年、品川で生まれました。父は家具職人で何人
かの弟子を使って仕事をしていました。一人っ子だった父は祖母に育てられ、非常に無口な孤
独な人でした。昭和初期の不景気と得意先の家具問屋が火災にあって倒産、仕事も道具もな
くなって失望のあまり酒におぼれるようになり、後は脳梗塞で半身不随となりました。母は九人
兄弟姉妹の三番目で、実家は米問屋、後には漁師や海苔養殖を手広くやっていました。母は
しっかりした明るい人で、私は学校から帰ると母を助けて子供をオンブしていました。
小学校六年で卒業するとすぐに糸巻き小僧をし、後には親戚のメッキ工場で働くようになりまし
た。母は実家の海苔養殖を手伝って家計を助けていました。戦争が激しくなり、私は二年くらい
三菱重工で働いていましたが、教育召集で国府台の東武第85部隊に入隊し、軍隊の訓練を
うけました。終戦後は戦争中に受けた教育価値観の逆転、精神的支柱を失って焼け野原に呆
然と立ちすくんでしまいました。然し、母がリュウマチに侵され入院し、父は半身不随で、家族
のために食料を買い出しに走り回りました。物資がないのでものすごいインフレーションになっ
ており、お金の価値がなくなり、ヤミ物資が出回っていました。この時、世の中の不公平さ、や
りきれなさで、酒を飲むようになりました。
 私の母方の従兄弟が五十三人で、私はその最年長であり、何かにつけて比較されました。
私の一歳下の従兄弟は、その父親が都立広尾病院の薬局長の息子で、医学博士になり、や
がて開業医になって親戚中の賞賛の的になっていました。私はしっかりしなくていけないのに、
逆に酒に溺れてしまいました。親戚中からののしられ、今考えると当人の私以上に、親の身と
してどんなにつらかっただろうと思います。両親を泣かせ、叔父叔母を怒らせてしまった私の罪
深さでした。病院の入院費も払えなくて、ギブスをつけたまま病院から送り返された母の姿を見
た時、申し訳なく、いたたまれず、地獄のような苦しみを味わっていました。
 足腰の立たなくなった母を最初は田苗姉、後には坂本姉が看病していました。寝巻と枕をも
って家を出て、荒川区東日暮里六丁目にあった米田渡金(メッキ)工場に住み込みで働くこと
になりました。この時に三河島駅前で路傍伝道を見て、荒川教会に心惹かれました。後日、教
会に行きました。浅澤兄が出てきて導いてくださいました。当時米田渡金に十人くらいの職人
が住み込んで働いていました。その頃神学生だった秋山光雄先生が、時々伝道に来ていらっ
しゃいました。その中に伊豆半島出身の山下というまじめな青年から、古い文語体の旧約聖書
をもらいました。私はその聖書をもって教会に行きました。
 大海原のようなスケールの大きな故山本岩次郎先生とわか先生ご夫妻との出会いによっ
て、私は初めて我が家に帰ったような安らぎと喜びを感じました。私は今まで犯してきた罪を悔
い改め、この私の罪の為に十字架にかかり、死んで甦って下さった主イエス・キリストを信じて
救われました。
 昭和29年10月3日、私の人生は百八十度転換しました。大いなる喜び、感動とともに、クリ
スチャンとしての第一歩を踏み出しました。その後、朝五時半からの早天祈祷会にも出席して
恵みを頂きました。
 昭和30年10月12日、山本先生御夫妻のご紹介で今の家内と結婚させて頂き、型破りの結
婚だからと水曜日の祈祷会の夜に結婚式をあげてくださり、ブラスバンドで送り出してください
まいた。三畳のアパートからの出発で、翌日から二人で早天祈祷会に出かけました。
 その年の12月の年末、東日暮里六丁目の三河島駅構内のすぐそばの古い家の三畳と四
畳半の部屋を借りて引っ越しました。隣のおまわりさんの九人家族とは障子にベニヤ板を張っ
て仕切られており、トイレもお勝手も共同の生活がはじまりました。翌年八月長女が与えられ、
ルカ伝15章20節「放蕩息子が父のもとに帰って来た」から主に帰依すると言う意味で山本先
生から帰依子と命名されました。
 お勝手の入るところに三坪程の三角形の庭があいていたので、何とか小さな事業(研磨)を
やりたいと思い、二人で祈りました。昔勤めていた品川のメッキ工場の社長さんから古いレー
スを一台もらい品川駅から電車に乗って日暮里まで一人で持ってきました。駅前の交番に預
けて家に帰り、家内を呼んできて二人で家まで運びました。山本先生の甥子さんで大工の山本
健一さんが三坪位の三角の土地に古材を利用して、バラックの工場を建ててくださいました。
 山本先生が教会の近くの電気工事屋さんに交渉してくださって、動力を引く代金とセコ(中古
の)二馬力のモーターを十回払いの月賦にしていただきました。レースのプーリーを近所の機
械屋さんに頼んでWベルト用に直してもらって昭和32年1月6日北風すさぶ寒い朝から研磨
工場としてスタートしました。昭和33年7月15日、長男誕生、山本先生は詩二十四から「志を
与えられ起つ」と言う意味で「起与志」と命名されました。感謝しました。
 米田渡金工場に勤めていた十人位の工員の中で私が一番劣等生だったのに、一番先に独
立して研磨工場を始めたので、皆驚いて刺激され五人まで次々に工場を辞めて、独立しまし
た。
 「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを
任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであ
り、・・」(ヨハネ15:16)
 その後、沖電気の電話のコンデンサー、金メッキ、女性のマツゲのカール器にニッケルメッキ
をつけるようにもなりました。今は、亡き井野兄もその頃から住み込みで働くようになりました。
仕事も多く与えられ、祝福され感謝しておりました。46年の暮れ頃から動悸がして何となく体
調がすぐれず、寝汗をかくようになり、47年の4月、仕事中に激しい腹痛と共に血尿が来て慶
応病院に入院、手術、尿管結石で一か月入院しました。
 その後、公害問題が持ち上がりメッキでシアンを使っていたので公害設備をしようとしたら、
大家さんから半永久的になるからと工場の立ち退きを迫られました。
 昭和48年のオイルショックの時、経済非常事態宣言が出され、銀行窓口は、金融引き締め
で金利が上昇し、狂乱物価が起き、インフレーションになり、土地も物価も上がり、機械や設備
の見積価格も、60日から急に14日間に更新されました。
 この難問題を前にしてどうしたら良いのか、分かりませんでした。先生方の並々ならぬ愛の
御労と兄弟姉妹の御厚意により東京都の公害工場の設備移転資金を借りる事が出来まし
た。神様の恩恵と憐れみで、現在の工場と住居が与えられました。49年7月5日、全ての設備
を終えて先生方と教会の皆さんに工場に来て頂いて、感謝会をさせて頂き、無から有を生じて
下さった、救い主イエス様に心から感謝のお祈りを先ず故山本岩次郎先生にして頂き、皆でお
祈りをお捧げしました。最初の設備にかかわって手伝って下さった竹達兄、太田邦恵先生、太
田省作兄、小川勝兄、田苗姉、坂本姉、又時々配達を手伝って下さった山本進先生、本当に
有り難うございました。その他パートや、アルバイトで手伝って下さった多くの学生さんや、兄弟
姉妹方、又尊いものを捧げて下さった愛兄姉の方々、有り難うございました。
 平成4年2月までメッキ工場を続けてきましたが、公害設備とメッキ設備の老朽化により、や
むなくメッキ工場を止める事にしました。屋上のクロム洗浄装置や排ガス装置等を業者の人と
一緒に永岡兄が工場の皆さんと共に解体、屋上から下まで運んで下さったり、5500リットルも
あるニッケルタンクを進先生と共に切断して下さり、業者の人が驚くような速さで、解体作業を
終えることができました。誠に有り難うございました。
 区の方から資金を借りて工場の後片付けやコンクリ等の費用、新しい研磨機、除塵装置等
を設置し、平成4年4月から新しくバフ研磨工場として再出発しました。何時も神様は折りに適
う助けを与え続けて下さいました。
 「天地は過ぎゆかん。されど我が言葉は過ぎゆくことなし。」(マタイ24:35文語訳)
 「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」(詩篇
103:2)
 「主は、あなたのすべての咎を赦し、・・あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわ
れみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。」(詩篇103:3〜5)

 人生の海の嵐に
 もまれきし此の身も
 救い主イエスの手により
 命びろいしぬ
 
 いと静けき港に着き
 我は今やすろう
 救い主イエスの
 手にある身は
 いとも安し
  (インマヌエル讃美歌163)

 恩師山本岩次郎先生が、天にお帰りになってはや十数年が過ぎました。先生、ワカ先生、誠
に有り難うございました。




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