聖書講義
サムエル記を学べば学ぶほど信仰がいかに重要かがわかる。聖書だから当然だがこれほ
ど具体的な事例を挙げて教えられては無視するわけにはいかない。加えて人間がいかに弱い ものであるかを思い知る。特にダビデのように生涯を通しての業績を明らかにされるといかに も弱く不安定な中に生き続けなければならない姿がある。詩篇の90篇10節の「私たちの齢は 七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それ は早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。」は実に見事にそれをあらわしている。人は迷い、 行き詰まり、もがき苦しんで道を進む。それがいのちにいたるのか滅びなのかを知らないまま に。
ダビデの犯した罪は、彼の改心とへりくだりによって神の大いなる哀れみを引きだし赦され
た。しかし、自分でまいた種は良いに付け悪いに付け自分で刈り取らなければならない。前に も書いたようにダビデにとって彼の姦淫事件は、生涯の終わり頃まで後を引く厄介なものとな った。彼は、これによる揉め事で2人の息子を失わなければならなかった。弟が兄を殺し、そ の弟息子を自らで葬り去らなければならない道を進んでしまった。この苦渋をなめなければな らなかったダビデに同情をするよりも、むしろ自らにそんな苦悩を背負い込まないようにここか ら学ぶべきである。
神の哀れみの豊かさは私たちの罪をただ赦すだけではなく(それすらキリストの十字架と言う
尊い血潮が犠牲となっている)、苦しいその罪の刈り取りを少しでも減らそうと導いて下さる。信 仰に優劣をつけるとしたら成功に漕ぎ着ける信仰よりも過ちや罪を犯した時にどの様に神と共 に信頼の中で自分を回復していくかの方がずっと難しいし大切である。信仰者がその晩年に 真の神の器足りえるかは神の豊かな哀れみにどれほど自らを捧げ尽くすかにかかっている。 まだ到達していない先の話を40歳そこそこの私が説いても説得力があるかどうかは分からな いが聖言(サムエル記)は確かにそれを伝えている。
聖書を見てみよう。―ダビデの子アブシャロムに、タマルという名の美しい妹がいたが、ダビ
デの子アムノンは彼女を恋していた。アムノンは、妹タマルのために、苦しんで、わずらうように なった。というのは、彼女が処女であって、アムノンには、彼女に何かするということはとてもで きないと思われたからである。アムノンには、ダビデの兄弟シムアの子でヨナダブという名の友 人がいた。ヨナダブは非常に悪賢い男であった。…ヨナダブは彼に言った。「あなたは床に伏 せて、仮病を使いなさい。あなたの父君が見舞いに来られたら、こう言いなさい。『どうか、妹の タマルをよこして、私に食事をさせ、私に見えるように、この目の前で病人食を作らせてくださ い。タマルの手から、それを食べたいのです。』」…彼女が食べさせようとして、彼に近づくと、 彼は彼女をつかまえて言った。「妹よ。さあ、私と寝ておくれ。」彼女は言った。「いけません。兄 上。乱暴してはいけません。イスラエルでは、こんなことはしません。こんな愚かなことをしない でください。私は、このそしりをどこに持って行けましょう。あなたもイスラエルで、愚か者のよう になるのです。今、王に話してください。きっと王が私をあなたに会わせてくださいます。」…とこ ろがアムノンは、ひどい憎しみにかられて、彼女をきらった。その憎しみは、彼がいだいた恋よ りもひどかった。アムノンは彼女に言った。「さあ、出て行け。」彼女は言った。「それはなりませ ん。私を追い出すなど、あなたが私にしたあのことより、なおいっそう、悪いことです。」…召使 の若い者を呼んで言った。「この女をここから外に追い出して、戸をしめてくれ。」…タマルは頭 に灰をかぶり、着ていたそでつきの長服を裂き、手を頭に置いて、歩きながら声をあげて泣い ていた。…それでタマルは、兄アブシャロムの家で、ひとりわびしく暮らしていた。―長い所だが サムエル記Uの13章1節から20節の内容を抜粋した。ダビデに降りかかった事件である。今 の時代も性の乱れは若年化し教会も例外ではないし、クリスチャンホームも同様である。この 子は大丈夫だと我が子を信じたい思いは強いが、拠り所の無い信頼は危険である。ダビデに 成り代わって今流行のシミュレーションをしてみると良い。私ならどうするだろうか。聖書は同1 3章21節でダビデが激しく怒ったと記しているが同23節で「それから満二年たって」と無策で 時が過ぎたこともはっきり示している。彼はタマルを見殺しにした。真の神、主の民イスラエル の王が弱く、真に助けを必要としている純粋な信仰を持った娘タマルを見殺しにした。バテ・シ ェバの姦淫事件に際しウリヤを亡き者にしたダビデであるが、私の見解は、ウリヤは表立って ではないが妻との姦淫を承知でダビデを責め、承知で命を捧げた。そんな彼の忠義は見事な ものであった。その姦淫と殺人の罪は大きいが、今回この娘タマルを見殺しにしたことはそれ 以上に大きい罪である。この時、ダビデ以外にこの問題に収拾をつけることの出来るものはい なかった。責任を果たさなければならない張本人がその責任を放棄した。自らの姦淫の罪をま ねるかのような息子アムノンの姿は彼の心をかき乱し不信の底に突き落としてしまった。神は 実に2年間という猶予を与え、へりくだって神の助けと心からの信頼を待ち望まれたがダビデ はそれに答えなかった。
信仰は大変具体的な問題である。神ご自身を私たちは見ることも触ることも声を直接に聞く
ことも出来ない。それゆえ信仰が現実離れしやすいが、神は私たちの周りの人々を通して具 体的に関わって下さる。キリストははっきりとご自身でそれを明らかにしておられる。―イエス は彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せ よ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という 第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。―具体的に隣人を愛そうとした時、神との豊 かな関わりを問われる。愛を求めている弱い者を見殺しにしてはいけない。教会とそれを形成 する家庭(クリスチャンホーム)が、その中に与えられた子供たちを守り導いていくために連帯し て取り組まなければならない具体的な部分があることを認めなければならない。
ついにダビデの無策に、息子でありタマルの兄であるアブシャロムが動いた。―アブシャロム
は自分に仕える若い者たちに命じて言った。「よく注意して、アムノンが酔って上きげんになっ たとき、私が『アムノンを打て。』と言ったら、彼を殺せ。恐れてはならない。この私が命じるの ではないか。強くあれ。力ある者となれ。」アブシャロムの若い者たちが、アブシャロムの命じた とおりにアムノンにした…ダビデの兄弟シムアの子ヨナダブは、証言をして言った。「王さま。… アムノンだけが死んだのです。それはアブシャロムの命令によるので、アムノンが妹のタマル をはずかしめた日から、胸に持っていたことです。…アブシャロムは、ゲシュルに逃げて行き、 三年の間そこにいた―(サムエル記U13:28〜38)
ダビデがきちんとおろかな息子アムノンを裁いていたら次の王位は失われても若い命を失う
ことは無かった。神の愛はダビデの姦淫の罪をきちんと裁いたことである。彼の周りにいたバ テ・シェバの夫ウリヤもダビデにつめより裁き、義を貫いて殉教した。預言者ナタンも恐れず彼 の罪を暴き神と共に具体的にその処理に当たった。愛することは決して悪しきに目をつぶるこ とではない。いたずらに信頼することでもない。神の示しに従って真摯に取り組むことである。
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