「同労者」第37号(2002年10月)                  目次に戻る    表紙に戻る

論  説
 ― 「バラムの道」に気をつけよう ―
(結実を阻むもの)
「イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。『種を蒔く人が種蒔きに出かけ
た。・・また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。・・耳のある
者は聞きなさい。』」(マタイ13:3〜9)

 実りの秋です。福音の畑でも実りが期待されますが、私達の結実を妨げるものに心を留めま
しょう。「人、全世界を儲くとも己が命を損せば何の益あらん。」とイエスは言われました。人間
にとって決定的に重要なことは、死んだら天国にいけるということです。さもないと地獄に行くこ
とになります。たとえこの世でどんなに富を得、力を得、名声を得、自らに属する物事が万事う
まく運んでも死んで地獄にいったら何になろうか?イエスはこのことを言われたのです。
 ところでこんなことがないでしょうか。「信仰を求めています。信じています。私はクリスチャン
です。」といいつつ、心はこの世の富、この世の楽しみを愛して離れない。罪の楽しみを取りあ
げて、「悔改めます。これを止めます。これから離れます。」と神に祈る。けれどもそれを離れる
ことができない。「私は何でこんなことに怒ってしまったのだろう。不親切なのだろう。優しくして
やれなかったのだろう。」と自分の心情の醜さに気づいて嘆く。これが救われているけれども潔
めに与っていない普通のクリスチャンの姿です。
 真剣になると、そこに葛藤があります。皆さんのうちで、信者に名を連ね、教会に来ていて
も、「自らの内なる罪との戦い、肉の性質との戦い、この世との戦いが思い浮かびさえもしな
い」方は、「自分の罪は何か」と問うところからやり直しをすべきです。きっとあなたは、キリスト
の門をくぐっていないし、救われてもいません。あるいは、かつて救われたことがあっても、キリ
ストの救いの中に留まらず、それ以前に生きていた"この世"に戻っているに違いありません。
 さて、私達が普通の葛藤に生きる信者であるとしましょう。そのとき警戒すべきは「バラムの
道」(ペテロU2:15)です。その記述は民数記22章から25章、および31章にあります。バラムに
ついて、聖書をひも解くと大変興味深い学びができます。彼はキリストを予言する者となったに
も関わらず、新約聖書に以下の様に引用され、その意味合いが示されています。
「・・彼らは正しい道を捨ててさまよっています。不義の報酬を愛したベオルの子バラムの道に
従ったのです。しかし、バラムは自分の罪をとがめられました。もの言うことのないろばが、人
間の声でものを言い、この預言者の気違いざたをはばんだのです。」(ペテロU2:15〜16)
「彼らは、カインの道を行き、利益のためにバラムの迷いに陥り、コラのようにそむいて滅びま
した。」(ユダ11)
   

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