「同労者」第37号(2002年10月)             目次に戻る    表紙に戻る

信仰良書

 − 神 へ の 道  (30) 
D.L.ムーディー 著   仙台聖泉キリスト教会 山田 大 訳


 兄息子の弁護
  ある時一人の婦人が私のところへ来て「私があなたの説に共感出来ないことを心に留めて
おいていただきたい」と言いました。私が「どんな点が問題なのですか」と尋ねると彼女は言い
ました。「あなたが放蕩息子の兄を非難するのは全くひどいことです。彼は気高い人格者だと
思います」 私は、彼女が彼を弁護するのは喜んで聞くが、そのような立場を支持するのは重
大な問題であること、そして兄息子は弟と同じくらい悔い改めが必要であることを彼女に言いま
した。自分が品行方正であることを語ろうとする人々には、家に入ろうとしない息子に嘆願して
いる年老いた父親の姿をよく見させるとよいのです。
ここで私たちが取り扱わなければならない別の種類の人々に移ろうと思います。この人々は罪
の自覚があってピリピの看守と同じように「救われるためには、何をしなければなりませんか」
と叫ぶ人々です。このような悔い改めの叫びを発する人々には律法を説く必要はありません。
まっすぐに御言葉へ導けばよいのです。「主イエスを信じなさい。そうすれば・・・救われます」
(使徒16:31) 多くの人が顔をしかめてあなたに言うでしょう。「信じるとはどういうことかわかり
ません」そして救われるために彼らが信じなくてはならないのが天の法則であっても彼らはそ
の他に何かを求めるのです。私たちは何を、どこで、どうやって信じるかを彼らに告げるべきで
す。
ヨハネ3章35、36節にこうあります。「父は御子を愛しておられ、万物を御子の手にお渡しに
なった。 御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見る
ことがなく、神の怒りがその上にとどまる」(強調点筆者)





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