「同労者」第37号(2002年10月)            目次に戻る     表紙に戻る

聖書研究

ヨブ記に学ぶ
(義人の苦難)

仙台聖泉キリスト教会   菊地 和子


(筆者、菊地和子姉のお証が、「聖泉」2002年8月号のまきばの声に「わが恩恵汝に足れり」
という題で載せられております。それをご一緒に読んで頂ければ幸いです。編集委員)


 ヨブ記のテーマである「苦難の謎」、それは人類の続くかぎり人生の永遠のテーマである。
 ピカソは「この世は余りに悲惨なことが多い。だから私は神の存在を信じない」と言ったそうだ
が、私達はこの世界を創り、歴史を支配しておられる神が、愛と正義の神様であることを信じ
ていても、人類の負っている苦悩の深さを思うと、エレミヤが「主よ。私があなたと論じても、あ
なたの方が正しいのです。なぜ、悪者の道は栄え、裏切りを働く者が、みな安らかなのです
か。あなたは彼らを植え、彼らは根を張り、伸びて、実を結びました。」(エレミヤ記12:1)と神に訴
えた気持ちが分かるのである。
 現代でも、この世は一口で言えば弱肉強食の世である。能力の弱い人間が苦しい生活をす
るのは当然であると誰もが思っているし、真面目で正直に生きる人より、策を陋し、法の網をく
ぐって巨万の富を作る人が如何に多いかを見るとき、二千五百年前と現代と、人間の本質は
余り変わらない様である。
 ヨブ記の記者は、自分自身が重い苦難を体験した人であろうか。或いは、イスラエルの民族
をあげての苦難であったバビロン捕囚、亡国の苦しみを、直接又は間接に知っていた人であ
ろうか。
 しかしヨブ記の作者は、主人公にイスラエル人ではなく、ウズの地の人という異邦人を選ん
だ。それは、人生の苦難の問題は、イスラエル人だけでなく、人類共通の問題であることを知
っていたからであろう。
 ヨブは資産家であった。健康に恵まれ、家族に恵まれ、そして何よりも、正しく、神を畏れ、悪
に遠ざかった人であった。それは人間の最も幸福な姿である。私が若い時読んだ、確かカー
ル・ヒルティだったと思うが、幸福な人生の条件として、
 (1)健康、
 (2)悔いのない職業、
 (3)清らかな結婚、
 (4)ゆるぎない人生観(信仰)、
を挙げているが、それは正に幸福なヨブの姿である。
 その幸福を、ヨブはある時突然に失ったのである。否、取り上げられたのである。人間の側
から見ては、どう考えても不当としか言いようのないこの事態に、ヨブは苦しんだ。肉体の苦し
みに加えて、神の御心が分からない。何故神がこのことをお許しになったのか。それがヨブの
最大の問題であったと思う。
 人は順境にある時は、容易に神の愛を信ずることが出来るが深刻な苦しみにある時は、ヨブ
でなくとも神様に一言申し上げたくなるであろう。
 ヨブを慰めようとしてやってきた三人の友達は、ヨブの余りの変わりように、声をあげて泣き、
地に伏して七日七夜、語りかける言葉も失った。ヨブの苦痛の大きさに、慰める言葉もなかっ
たのである。ヨブの苦難を聞いてかけつけ、共に泣いてくれた真に良き友であることも多いし、
神の試練のこともあるだろうが、ヨブ記の記者はその冒頭で、その人は潔白で正しく、神を畏
れ、悪から遠ざかっていた、と紹介しているから、友の言い分は的外れであった。三人の友は
何とかしてヨブを納得させようと懸命であったが、自分の教義を正しいと信ずれば信ずるほどヨ
ブを追いつめていった。そしてヨブは必死になって神にお答えを迫ったのであるが、そのお答
えは、ヨブの全く予想もしない形で来たのである。
 神は全能者として、宇宙とその創造者のことを、圧倒的な力をもって示されたのである。「あ
なたはわたしのさばきを無効にするつもりか。自分を義とするために、わたしを罪に定めるの
か。」(ヨブ記40:8)とヨブに問われた。そして河馬やワニに代表されるような、人間の目には美し
いとは思われない様な自然界の不調和も、神の創造は人の理解とは違うこと、この世界は人
間中心にだけ見てはいけないことを教えられた。そしてヨブは自分の正しさ主張してやまなかっ
た自己を砕かれて、始めて神を拝見したのである。
 ヨブ記は、この「苦難の謎」の答えを、直接的な、苦難からの解放、という形では答えてくれな
かった。
 それから五百年後、人となり給うた神の独り子、イエス・キリストが、自ら十字架上に苦しま
れ、人間の罪を購われたことによって人間に対する神様のお答えは示されたのである。
 ヨブは信仰深く悪に遠ざかった自分に対して下された苦難に苦しんだのであるが、不条理と
言えば、イエス様の十字架の死ほど不条理なことは無いと思う。ヨブは義人と言っても人間で
ある。
 一点の罪もない神の子イエス様が、十字架という残酷な刑罰につけられたのだ。全人類に捨
てられ、弟子達は逃げ去り、その上「わが神わが神、どうしてわたしを見捨てられたのです
か。」と大声で叫ばれ息を引き取られたと云う。神の子の死に、天地は光を失って暗黒になっ
たと云う。
 人間にはこの不条理に見えるイエス様の死も、実は神様には深いお考えがあったのだ。人
間の罪を赦すにはこの方法しかなかったのだ。罪のない人が罰せられて、罪の人間が赦され
る。イエス様は人類全体の罪を一身に背負われて十字架に架かられた。その重さはどんなだ
ったろうか。私の罪を赦す為に十字架上に血を流されたイエス様!。その愛の深さに私は讃
嘆の思いを禁じ得ない。十字架は限りない愛の源泉である。
 イエス様は「自分の十字架を負って私に従いなさい。」と仰せられたあ。人の一生には色々な
苦難があるが、罪を赦されて神の救いに入れて頂いた者の苦難は、罪のこの世を少しでも潔
めるのではないかと私は思う。
 イエス様は又、「あなたの隣人を愛しなさい。あなたの敵を愛しなさい。」と言われた。
 今、地球上にはあらゆる苦難が満ちている。戦争、迫害、貧困、飢餓、差別、流浪。その弱
い人々の上には、大国のエゴ、先進国のエゴ、権力者のエゴ、富める者のエゴと、あらゆる人
間の罪が重くのしかかっている。それらの人々の苦悩に、私達は同情しながらも知らず知らず
のうちに先進国、富める国に生きる論理で対処しようとしてはいないだろうか。文化が低いか
ら、教育が低いから、宗教が違うからと、何時の間にか相手を裁き、見下し、その底にある彼
らの悲しみ、苦しみをどれだけ思いやっているだろうか。
 神様から人間にだけ与えられた特別の力を、国も、指導者も、己が勢力の拡張、貪りのため
にだけ用いずに、弱い人々と分かち合うために使ったら、もっと明るい社会になると思う。
 私達ひとり一人の力はほんとに小さい。しかし、この罪の身を受け入れて下さった神の愛に
応えて、この不条理な世にあっても、隣人の苦しみを少しでも担う者となりたいと思う。



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