「同労者」第38号(2002年11月)              目次に戻る      表紙に戻る

聖書講義

 − 昨日のサムエル記 (その24)  −
仙台聖泉教会 牧師 山本 嘉納

 「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。」と箴言27:17に記されている。
時々、手伝いをする教会役員の石井さんの鉄工場で習ったことは、曲がってしまった鉄を直す
にはたたくのが一番手っ取り早いということである。しかし、これも上手にやらないと取り返しが
つかなくなる。曲がっている所を確実にたたかないと波打ってしまい親方のお世話になってしま
う。手伝いが逆に仕事を増やしてしまう不始末である。仕置きも曲がった人間を直すのには有
用な手段であるが限度と頃合いを誤ると虐待になってしまう。神はご自身を明らかにする手段
として私たちの身近に居る人格を用いられる。苦しい時、悲しい時にしかし、がんばって乗り越
えなければならない時、全てを解決してくれる救世主を私たちは求めがちだが、神が送られる
のは小さなわが子の「僕のためにがんばってくれてありがとう」の一言である。これで間に合う
か間に合わないかは別として、神は私たちから困難を取り除くのではなく、それを乗り越える信
仰と能力をお与えになる方である。わが子も上手な仕置きで直ったり、慰めになるうちは良い
が自らの思いにまかせて振舞うようになったら厄介である。前回、不肖の子アムノンを放置し
たゆえにアブシャロムの殺人を引き起こさせてしまったダビデについて書いたが、こんな厄介
事に果たして誰か第三者が手助けに入って解決まで共に歩んでくれるだろうか。ダビデにとっ
ても直接的に悪を行い、はっきりと預言者なり誰かに責められれば気が付き潔く悔い改めもす
るだろう。しかし、元凶は自分にあったにせよ直接的でない問題には、なかなか解決と悔い改
めの機会というものは訪れにくい。相手が身内であると特にそれは顕著になり解決されないま
ま時を浪費する危険を孕んでいる。教会も神の家族としてその関係が密になり係わり合いが
複雑になって来ると問題の元凶を明らかにし、その解決のための策をこうずることができなくな
る。意外と教会の崩壊はこんな所から来るのかもしれない。
 アブシャロムがアムノンを殺害した直接的動機は自分の妹、タマルが辱めを受けたことへの
復讐である。しかし、自らで殺人を犯せば次の王位はおろか自らの命さえ失ってしまう可能性
があることは明らかである。もし彼がタマル事件後直ぐ、アムノンに手をかけて殺したのなら怒
りと憤りを抑えきれずに衝動的に行ったものと推測できる。聖書は「それから満二年がたっ
て、」と十分に考える時間があったことを示している。彼は自分がどうなってもあのアムノンだけ
には王位は譲れないと考えたのである。あれほどの不祥事をしでかしても処分せぬまま、目を
つぶりあたかも次の王位をすんなり譲るかのような父ダビデに失望したのである。子供にとっ
て、特に男の子にとって父親は誇りとしたい最初の人格である。たとえ愚かな父親に見えても
子供は自らを堅持するために良い優れた所を見出し誇りとする。ダビデは、決して愚かな父親
ではなかった。戦いに明け暮れる多忙な父親であったがその光栄は子供たちに十分であっ
た。しかし、一度その像が崩れる時、子供にとってその反動は大きい。
 ダビデにとっても、賢く行儀の良い息子アブシャロムの反逆は理解を超え、嫌悪感にも似た
気持ちを抱かせたようである。勿論、起こった事柄の重大さはダビデ王にとって取り返しの付
かないものであった。一度に二人の息子を失わなければならないのである。すでにそれぞれが
親離れしているとは言え、一人は殺され、もう一人は殺人者として逃亡者となった。自らの愚か
しさと責任を痛感し事の収集を図りたくてもどうすることもできないイスラエル王国、神の選民
の長が途方にくれている。時間は人を癒すと考えているがそれは間違いである。私たちは、す
でに信仰生活、教会生活を長く送っている。罪に対する対抗策が十分講じられているかのよう
に思う。確かに一面、罪と分かるものをあえて犯すことは無い。しかし、いつの間にか信仰者で
ない者と同じ考えに陥ってしまうことを注意しなければならない。私たちは時に人間関係や
色々な事柄が複雑に絡み合って、図らずも人を傷つけてしまったり深い隔たりを招いたりす
る。どんな方策も通じず、解決は容易に図れないかのような事柄を前にして私たちは神を信じ
ゆだね待ち望むことを知っている。本気で信じて取り組むなら乗り越え、修復する能力と機会
が与えられるのである。時間が人を癒すのではない。神が癒してくださることを謙り待ち望むの
である。
 サムエル記U13:37〜14:1に「アブシャロムは、ゲシュルに逃げて行き、三年の間そこにい
た。ダビデ王はアブシャロムに会いに出ることはやめた。アムノンが死んだので、アムノンのた
めに悔やんでいたからである。ツェルヤの子ヨアブは、王がアブシャロムに敵意をいだいてい
るのに気づいた。」と書かれている。ヨアブが第三者としてダビデの問題に介入し助けになろう
と考えた。彼の思惑というか動機は用意に察知できない。改めて取り上げて書いてみたいと思
うがその一部を紹介すると、彼は実に難解な人物の一人である。聖書は既に過ぎ去った歴史
を記しているから、この後アブシャロムとの戦いが起こり息子の命乞いをしているダビデを尻
目にこのヨアブは槍で彼を殺した。ここで彼が事態収拾を図るためにスコテの知恵ある女を呼
び出してダビデに謁見させた事とアブシャロムがクーデターを起こした事柄では、実情が全然
違うし時間の経過があるので推察するのも簡単でないが、ヨアブはダビデ王家の存亡に関わ
る大事としてそれ以上の混乱を食い止めようとしたのは間違いでは無いと思う。注目すべきは
ダビデの反応である。まずこのスコテの女に「私が尋ねることを、私に隠さず言ってくれ。」女は
言った。「王さま。どうぞおっしゃってください。」王は言った。「これは全部、ヨアブの指図による
のであろう。」女は答えて言った。「王さま。あなたのたましいは生きておられます。王さまが言
われることから、だれも右にも左にもそれることはできません。確かにあなたの家来ヨアブが私
に命じ、あの方がこのはしための口に、これらすべてのことばを授けたのです。」(同14:18〜
19)と言わせた。ナタンがバテ・シェバとの姦淫の罪を明らかにしそれを断罪するためにとった
手法のようにヨアブも行った。しかし、それはダビデに見抜かれていたし、出所がどこか明らか
でないこの糾弾に簡単にダビデの心は動かなかった。アブシャロムはエルサレムに戻された
が処分保留のまま時間だけが過ぎていった。お互いが相手を恐れるゆえに溝は深くなる一方
である。時間ではどうすることもできないのにただ静かに時間だけが過ぎて行った。心に巣食う
憎しみと嫌悪の思いは日増しに強さを増して意気、善良な部分を飲み込んでしまうようである。




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