ると思います。教会の先生に伺うことは勿論一番ですが、それを独り占めしないで、すこし公開 してください。それを皆で考えると、きっと皆さんにとって益になると思います。 質問の送付先は巻末にあります。 先月の質問の回答例(作成者:野澤) 先月の質問は、 1. 旧約聖書の主(エホバ)が新約聖書ではイエス・キリストのことであると引用されている例を 挙げて、イエスが神であられることを示す聖書の教えを述べてください。 でした。引き続きR.A.トーレイの「聖書の教え」からの抜粋のつづきとさせていただきます。 <キリストの神性(つづき)> 2.4 イエス・キリストは旧約聖書に主(エホバ)と記されているお方であること (1) 詩編102編 「私は申しました。『わが神よ。私の日の半ばに私を取り去らないでください。あなたの年は 代々に至ります。あなたははるか以前に地の基を据えられました。天も、あなたの御手のわざ です。これらのものは滅びるでしょう。しかし、あなたはながらえられます。すべてのものは衣の ようにすり切れます。あなたが着物のように取り替えられると、それらは変わってしまいます。し かし、あなたは変わることがなく、あなたの年は尽きることがありません。』」(詩編102:24〜27) 「またこう言われます。「主よ。あなたは、初めに地の基を据えられました。天も、あなたの御 手のわざです。これらのものは滅びます。しかし、あなたはいつまでもながらえられます。すべ てのものは着物のように古びます。あなたはこれらを、外套のように巻かれます。これらを、着 物のように取り替えられます。しかし、あなたは変わることがなく、あなたの年は尽きることがあ りません。」(ヘブル1:10〜12) このヘブル人への手紙の「主」はイエス・キリストをさすものと理解されています。 (2)イザヤ書40章 「荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を 平らにせよ。すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地 に、険しい地は平野となる。」(イザヤ書40:3) 「この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通ら れる道をまっすぐにせよ。』」と言われたその人である。」(マタイ3:3) 「『ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなし、救いの角 を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。・・幼子よ。あなたもまた、いと高き方の 預言者と呼ばれよう。主の御前に先立って行き、その道を備え、・・』」(ルカ1:68、69、76) イエスは「主」であられたので、その御顔の前に使者が先立って行きました。 (3)エレミヤ書11章、17章 「しかし、正しいさばきをし、思いと心をためされる万軍の主よ。あなたが彼らに復讐するのを 私は見ることでしょう。私が、あなたに私の訴えを打ち明けたからです。」(エレミヤ書11:20) 「わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれその生き方により、行ないの結ぶ実によって 報いる。」(エレミヤ書17:10) 「また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして全教会は、わたしが人 の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行ないに応じ てひとりひとりに報いよう。」(黙示2:23) 旧約聖書の中の主(エホバ)について明白に言われていることをイエスが成就されました。 (4)イザヤ書60章 「太陽がもうあなたの昼の光とはならず、月の輝きもあなたを照らさず、主があなたの永遠の 光となり、あなたの神があなたの光栄となる。」(イザヤ書60:19) このことは次の聖句によるとイエスに相当しています。 「異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」(ルカ2:32) (5)イザヤ書6章 「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは 神殿に満ち・・セラフィムがその上に立っていた。・・互いに呼びかわして言っていた。『聖なる、 聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。』・・すると仰せられた。『行って、この民 に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』この民の心を肥え鈍らせ、その 耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、立ち返っ て、いやされることのないために。』」(イザヤ書6:1、3、10) 「イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなか った。それは、『主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現わされ ましたか。』と言った預言者イザヤのことばが成就するためであった。 彼らが信じることができ なかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。『主は彼らの目を盲目にされた。ま た、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見、心で理解し、回心し、そしてわたしが 彼らをいやす、ということがないためである。』イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光 を見たからで、イエスをさして言ったのである。」(ヨハネ12:37〜41) 旧約聖書の記事ではイザヤが万軍の主の栄光を見たときにこれらのことを語ったのです が、新約聖書ではそれがイエス・キリストの栄光を見たときこれを語ったのであると解説されて います。 (6)イザヤ書8章13節 「万軍の主、この方を、聖なる方とし、この方を、あなたがたの恐れ、この方を、あなたがたの おののきとせよ。そうすれば、この方が聖所となられる。しかし、イスラエルの二つの家には妨 げの石とつまずきの岩、エルサレムの住民にはわなとなり、落とし穴となる。」(イザヤ8:13〜14) 「したがって、より頼んでいるあなたがたには尊いものですが、より頼んでいない人々にとって は、『家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった。』のであって、『つまずきの石、妨 げの岩。』なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように 定められていたのです。」(ペテロT2:7〜8) 旧約聖書では主(エホバ)が彼らにつまづく石その他であり、新約聖書ではイエス・キリストが つまづく石その他である。 (7)省略 (8)民数記21章 「そこで主は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの 人々が死んだ。民はモーセのところに来て言った。『私たちは主とあなたを非難して罪を犯しま した。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、主に祈ってください。』モーセは民のため に祈った。」(民数記21:6〜7) 「私たちは、さらに、彼らの中のある人たちが主を試みたのにならって主を試みることはない ようにしましょう。彼らは蛇に滅ぼされました。」(コリントT10:9) 旧約の主(エホバ)は新約の主(イエス)であることが示されています。 (9)詩編23編、イザヤ書40章 「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」(詩編23:1) 「よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主とともに あり、その報酬は主の前にある。主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄 せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。」(イザヤ40:10〜11) (補足)「あなたがたはわたしの羊、わたしの牧場の羊である。あなたがたは人で、わたしはあ なたがたの神である。」(エゼキエル34:31) 「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:11) 旧約の主(エホバ)羊飼いであり、新約の主(イエス)も同じ羊飼いです。 (10)エゼキエル書34章 「まことに、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これ の世話をする。 牧者が昼間、散らされていた自分の羊の中にいて、その群れの世話をするよ うに、わたしはわたしの羊を、雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出して、世話 をする。・・わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病 気のものを力づける。わたしは、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは正しいさばきをもっ て彼らを養う。」(エゼキエル書34:11、12、16) 「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカ19:10) 旧約聖書の主(エホバ)は新約聖書のイエスは共に失われたもの、羊を尋ね出して救うお方 です。 (11)主という語は、旧約聖書では特別な暗示がない限り常に神を指しています。ところが新約 聖書では、前後の文脈から明らかに他のものを指すことを示していない限り、常にイエス・キリ ストを指しています。 以上、旧約聖書に神エホバとして語られていることは、新約聖書中のイエス・キリストにあた る場合が極めて多いのです。つまり、新約聖書の思想と教理の中で、イエス・キリストの占める 位置は旧約聖書の主(エホバ)の占めている位置と同じです。 今月の質問 1.イエス・キリストは神(父なる神)と同等に扱われていること、神としての礼拝を受けておられ る例を挙げ、イエスは神であられることを示して下さい。
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